紫陽花(花まくら より 026)

 花というのは普通、雨に弱いものである。桜の花などが、その典型で、雨粒が当たった勢いで、花が落ちてしまう。桜が満開になる時期には、今週末まで持ちますかね、雨が降らないといいのだけれど、などという会話がそこここで交わされる。
 紫陽花はそういう意味で、梅雨時に盛りを迎える、特異な存在である。少し厚ぼったい花びらは、降りそそぐ雨のしずくをはじき、周囲に刻みが入った大きめの葉は、濡れそぼって濃い緑色に映える。紫陽花は、雨に打たれてこそ美しい。
 紫陽花は、七変化、とも呼ばれる。七変化、とは咲いている間に、色を変えることから来ている。紫陽花の花の色は、主に赤から青のグラデーションの系統と、白系統とある。このうち、色が変わるのは、赤から青のグラデーションの方である。なぜ色が変わるのかというと、これはペーハー値(pH値)に由来するもである。
 紫陽花を発色させる物質には、土中のアルミニウムが関係している。土が酸性だとアルミニウムは土中にイオンとして溶けた状態で存在する。それを紫陽花が養分と一緒に吸い上げると、紫陽花の中に存在するアントシアニン(目に良いとか、ブルーベリーに入っている、などで知られているやつですね)と結合して、青く発色する。土がアルカリ性だと、アルミニウムはイオン化しないので、紫陽花の中にアルミニウムが入ってくることはなく、紫陽花は赤く発色する。
 その中間、紫陽花全てを真っ青になるほどの量のアルミニウムイオンが土中になかった場合には、紫色で、青と赤のグラデーションの花が咲く。これが大まかな七変化の仕組みである。
 この性質をふまえて、ミステリー作品や、怪談話に、紫陽花の色の変化を小ネタとして入れた物がある。
 例えば、突然色が変わった紫陽花の下に、死体が埋まっている…というものである。土中に埋められた遺体は、腐敗が進むうちに次第に酸性に傾いていき、土を酸性にする。酸性になると…紫陽花は青い花を咲かせる。つまり、赤い紫陽花が、突然青い花を咲かせた時には、その下に何かが埋まっているということかも…。しかし、そう都合よくはいかないもので、日本国内では雨がよく降るので、酸性雨の関係から、日本の土壌はほとんどが酸性に傾いているらしい。なので、日本にはもともと青い花を付ける紫陽花が多く、もし仮に死体を埋めたとして、さらにもし仮にそれが土を酸性に変化させたとしても、青い花は青いままである。
 それならむしろ、遺灰を撒いて、灰はアルカリ性だから、青い花が赤くなった、という方があり得るかもしれない。飼い犬が亡くなった時、庭に土葬する人は、近頃はまずいないと思うが、ペットの遺灰程度なら、庭の紫陽花の根元に埋葬する人も、いないとも限らない…。青かった紫陽花が、ほんのりピンク色になる、その程度の変化なら、現実に起こっても、おかしくないのかなぁ、などと、想像してみる。
 ちなみに、白い紫陽花の株は、青や赤に発色するアントシアニンという色素を含んでいないので、色が変化することはない。
 白い紫陽花、というのは私は子供だった一九九〇年代にはあまり見かけなかったが、二〇二〇年現在は、歩いていると、ちょくちょく見かける。紫陽花の花は、とても長持ちで、盛りが長いから、白い花が完全な状態で咲いていて、見ていてとても清々しい。他の種類の花ならば、花びらのフチから茶ばんで見苦しくなるところだが、紫陽花は冴え冴えとして、濃い緑の葉の色に、白さが際立つ。白い色の紫陽花は、青や赤と違って、また格別の美しさがあると思う。
 それらとはまた別に、花の咲き方の違いで、紫陽花には手毬の形に大きく丸く無数の小花を咲かせるものと、ガクアジサイとがある。手毬型の紫陽花が、小花がボール状に集まって咲くのに対して、ガクアジサイは真ん中に蕾のようなものが密集し、その周りを、四弁の花が取り囲む。厳密には、花に見えているのは、ガクとよばれる部位で、このガクが蕾のように見えている部分(本来の花)を縁取っていることから、ガクアジサイ、という名前がついたと言うことらしい。ガクアジサイはボリューム感では手毬型に劣るが、花の造りが凝っているので、見栄えがし、どちらも甲乙が付けがたい。他、ガクアジサイのバリエーションであったり、手毬型でも形が丸でなく紡錘形であったり、と無数に品種がある。中でも二〇二〇年直近の流行は、秋色紫陽花である。
 秋色紫陽花とよばれるグループは、これぞまさに七変化、というべき品種で、赤や青の花が咲いた後、時間が経つにつれ、次第に緑色がかっていき、彩度が落ちて、最後には全体に褪せた、アンティーク調の色彩へと色が移り変わってゆく。うまく管理すれば、切り花で一ヶ月以上保たせることができ、その間、ゆっくりと色が変わっていく様子を楽しめる、という花である。色が変化する途中の、青、赤、緑、黄色、灰色、が渾然一体となった花の色は、一言では言い表せないほど複雑で、曖昧で、紫陽花の新しい魅力を存分に引き出していると思う。
 それとは別に、緑色の紫陽花、というものがある。これは人工的に処理がほどこされた紫陽花で、赤や青に色づくはずの部分が葉緑素を持ち、まるで葉っぱのような緑色になる。白い系統の紫陽花の中には、やや緑色がかったものもあるが、それとは全然違う、本当の葉っぱの緑色の紫陽花である。
 これは、どうやって処理するかというと、なんとわざと病原菌を散布して、葉化病という状態にして成長を阻害する、という方法で行われている。ある種の病原菌に紫陽花が感染すると、正常な形での成長が阻害され、花のように見えるガクの部分が、色素を失い、本来は持たない葉緑素を溜め込むのである。すると、ガクは葉っぱのように変化し、まるで最初から緑色だったかのような紫陽花が咲いたように見える、というわけである。この緑色の紫陽花は、非常に美しい姿で、人気もある。しかし、このやり方には問題があることがわかり、徐々に見かけなくなってきた。問題とは、緑色に処理された紫陽花に病原菌が残ったまま出荷されるということである。そして出荷先、購入された先で、別の紫陽花の株に、感染を広げるのである。病原菌に感染した紫陽花は、緑色の花をつけるようになってしまう。健康であれば赤や青の花をつけるはずの普通の紫陽花まで、意図せず全て緑色にしてしまうのである。また、結局のところ病原菌なので、株自体、そのうちに弱って枯れてしまう。人がより美しいもの、華麗なものを求めるのは自然な心理だけれども、目先の事だけを追ってはいけない、という寓話のような話である。
 話は変わって、紫陽花の和菓子について話したいと思う。花を題材にした生菓子は数あれど、その中でも紫陽花を題材にした生菓子は、意匠が凝っていて、愛らしく、キラキラとして、露に濡れて輝く花の美しさがよく表現されていると、私は思う。
 和菓子の紫陽花は、代表的なものは、ねりきりで作った玉の上に淡い赤や青の錦玉をさいの目に切って乗せたものだろう。ねりきりというのは、白あんと小麦粉を合わせて蒸した上でよく練ったもので、紫陽花の場合は、白そのものか、ほんのりと紫色に着色する場合もある。それを手のひらにすっぽりと収まる大きさにまるめる。やや、扁平に、押しつぶした形にしておくと、あとで錦玉を盛る時に収まりが良い。錦玉は、糖水を寒天で固めたものである。紫陽花に乗せる錦玉の色は、七変化の色だ。赤ばっかり、青ばっかり、という和菓子は見たことがない。色はほんのり、キツくはしない。赤から青にかけての陶然とした色の変化を写し取るように、微妙に違う色の錦玉が用意される。それを細やかな四角に刻む。四角に刻むのは、紫陽花の花の四弁を模している。涼しげに透ける、透明で色あざやかな錦玉を、ねりきりの玉の上にこんもりと盛る。満開の紫陽花の玉を頭に描きながら、赤と青が渾然一体となった七変化の姿を、和菓子の中に写し取っていく。
 息を詰めるような作業がつづき、やっと一つの紫陽花が出来上がる。紫陽花のあざやかさを引き立てる、黒い漆塗りの菓子器の中に二つ、三つ、と並べれば、透明な錦玉のてりが、雨上がりに濡れた花の趣きである。
 黒文字で切って、一口噛めば錦玉のホロリ、としたもろい食感と、続いて、ねりきりの滑らかな舌触りが感じられる。錦玉は口当たりがひんやりしているから、蒸し暑い梅雨時期にあって、食べやすい。合わせて出てくるのは、冷緑茶である。
 庭を見れば、赤、青、そしてそのどちらとも判然としない、複雑に混ざり合った色合いの紫陽花たちが、満開だ。切れ目なくしとしと降り注ぐ小雨に濡れている。時折、葉に溜まった水が、重みでこぼれ落ち、パッと葉が動く。静かに和菓子とお茶を進めれば、紫陽花たちが、もう、今しばらく梅雨は続きます、と語りかけてくるようである。

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