ひまわり(花まくら より 001)
保育園に通う娘のロッカーに、ぽちりとシールが貼ってあるのに気が付いたのは、恥ずかしながら、通い始めてから二年目のことだった。あたりを見回すと、子供一人一人に違う絵柄のシールが貼り付けてある。それを見て、私は自分の子供時代のころを懐かしく思い出した。子供時代、幼稚園のころ、私にも、私の印があった。その柄がなんだったか、もう記憶はないけれど、ぽちりと貼られた、その印を頼りに、お片づけをし、身支度をし、何くれとなく、その印を目にし、愛着を持っていた。一つのアイデンティティの芽生え、自分の名前を文字で知る前に、自分の物、という意味で刻印する、所有という概念の始まりだったと思う。この印が私のもの、という、ささやかな主張。幼児の心に、根を張った、我(が)の象徴。
それが、直径二センチのシールだった。
娘に与えられた印のシールの絵柄は、ひまわりだった。ひまわりと言えば、猛暑にめげず、明るく元気に、大輪の花を咲かせる、夏の花。女の子のイメージとしては、素直でまっすぐ、豪快なほどの笑いを顔一面に爆発させる、元気な子ではないだろうか。ひまわりの似合う芸能人は誰?と聞けば、大抵の人なら、誰かしらがパッと頭に浮かんでくる、ある種ステレオタイプな人格像を持つ花だと思う。
その夜、私は夫に、シールのことを話した。娘のシールの印が、ひまわりだってこと知っていた?と、たずねた。夫はそうだね、ひまわりだね、と答えた。夫も保育園の送迎に行くことがあるから、目にしたことがあるということだった。
私が、ふと、でも…と続けて、娘のイメージは、ひまわりじゃないと思わない?とたずねると、夫は笑った。確かに、我が家の娘はひまわりのイメージとは少し違うかも、と答えた。
悪い意味では無い。我が家の二歳の娘には、ひまわりの持つ、快活さはあっても、明快さは無いのである。カッと咲いて、堂々と花弁を広げる、ひまわりの開けっぴろげな豪快さも、娘には無い要素だと思う。とびっきりのビッグスマイルで、辺りを照らす、そういう赤ちゃんではなかった。穏やかな微笑みで、安らいだ雰囲気を与えてくれる、そういう性質の赤ちゃんだった。
以来、私はひまわりに代わる、娘にぴったりの花を探している。明るさの中にも、陰のある、少しひねくれ者の娘は、スミレかな?と考えてみる。でも、スミレの控えめな雰囲気は、娘には感じられ無い。藤かな?と考えてみる。豪奢でありながら、儚く、ゆらゆらと捉えどころのないところが、娘に合っているかもしれない。つる植物のくせに、強情なほどにガッチリとした幹も、それらしい。藤色、まさに藤の花の色の淡い紫色も、娘の好む色合いである。いやいや、紫色の花を付ける、つる植物と言えば、テッセンかも、など、想像は尽きない。
女性を花に例えると、何かしら?という問いは、古典的なものである。あの人は、あの子は、あの方は、と思いをめぐらせれば、とりとめなくも美しく、華麗に、可憐に、とりどりの花が頭に浮かんでくる。
そして、自分自身は?
どんな花だろうか?いや、どんな花のようでありたいだろうか?真っ先に、ひまわりのような人でありたい、と答える人が、一定数いる気がする。
娘のシールがひまわりに決まった時、おそらく、担当の保育士の先生は、娘の人となり、性格は知らなかったはずだ。容姿は、もしかしたら、一度か二度、面談の際に見たことがあったかもしれない。たくさんの絵柄の中から、先生はどんな気持ちで、娘の印をひまわりに決めたのだろうか。全くの偶然、無作為な抽出の中で、無意識の内に、明るく元気な子供を期待したのだろうか。
娘が保育園でひまわりの印を得てから、早いもので、もう四年経つ。小さい頃は、慎重派だった性格も、今はやや鳴りを潜め、時に大胆で、ひょうきんな一面が前に出てくるようになった。好む色は相変わらず紫色だが、黄色い服も、あれば着るだろう。というより、もし、真っ黄色のひまわりの柄の服があれば、娘は声を上げて喜ぶだろう。
夜、一緒に図鑑をめくっている時、娘が歓声を上げて、ひまわりの花の写真を指差し、
「◯◯ちゃんの、ひまわり!」
と、嬉しそうに教えてくれた。興奮して上ずった声の中に、自分自身を表す印が、そこにあることへの愛着と、誇らしさが込められていた。娘の中には、ひまわりの花が、咲いている。私にはそう思えた。保育園で与えられた、ひまわりの印、小さなシールを通じて、娘の心に、ひまわりの花が咲いたのである。
日々の関わりの中、環境が幼子に与える影響は、計り知れないものである。娘が、偶然にひまわりのパブリックイメージに接した結果として、その形質が、娘の人格形成に根を下ろしたのは間違いない。
保育園の園庭には、毎年、ひまわりの苗が植えられる。すくすくと育つひまわりを見て、娘は過ごす。そして花開く時、保育士の先生が、指を差し、きっとこう言うのだ。
「◯◯ちゃん、ひまわり、咲いたね」
と。そして娘は大輪のひまわりを自分に重ね、手を打って喜ぶ。そういう繰り返しが、娘とひまわりの結びつきを強めていく。ひまわりのパブリックイメージが、娘に、溶け込んで行く。
今、四歳になった娘は、ひまわりの似合う女の子に成長している。どこか陰のある、一癖ある雰囲気と、そもそも顔立ちが涼しげなところは変わらないが、きゃっきゃと声を上げてはしゃぐ、年相応の無邪気さは、まさにひまわりのそれである。
娘を花に例えると、何かしら?
母親である私がそれを考える時、良きにつけ悪きにつけ、そうあってほしい、という願望抜きにして、花を選ぶことはできない。もうほとんど、読者の皆様はお気づきかと思うが、私はひまわりの花をあまり好まない。花そのものは嫌いではないのだが、ひまわりのような人、という形容詞には、若干の胡散臭さを感じてしまう性質である。だから、娘を花に例えると、ひまわり、ということはない。いや、ひまわりのような、という形容には、薔薇のような、に通じる、一種出来過ぎのような、完璧すぎて胡散臭い、という方が正しい気がする。
娘には、どんな花のようであって欲しいだろうか?
全ての花が、娘の一面を語っているようで、反面、全ての花が、しっくりとこない。
しいて言えば、やはり藤の花だろうか。でも、あれは自立できないところが、人としては欠点である。人工物の藤棚にしろ、自然の中の大木にしろ、何かに取り憑くように巻きつき、腕を回すように、枝をしがみ付かせて、絡みついて、すがりついて、始めて幹を太らせる、妖怪じみた植物である。
違うんだよなぁ、と、思いをめぐらせて、考えは尽きない。
色々考える内、結局、ひまわりのような女の子でいてほしい、ということに戻ってくる。小さな女の子である今は、ひまわりのように、明るく、元気でいてくれたらいい。
抜けるような青空の下、炎天下の中、麦わら帽子をかぶった娘と手をつないで歩いている時、あっ、と声を上げ、私の手を振りほどいて、可愛い手が指差した先に、大きなひまわりがあってほしい。
「◯◯ちゃんのひまわりがいっぱい!」
そうだ、今年の夏は、ひまわり畑に行こう。何かの旅行雑誌で、見た事がある。一面、ひまわりの覆われた丘の写真が、記憶にある。あぁいうところに連れて行って、娘を喜ばせたい。満開のひまわりに、娘の満開の笑顔。
なんのことはない、私が一番、娘にひまわりのパブリックイメージを刷り込もうとしているのかもしれない。保育園のシールがひまわりでなかったら、こんな風には思わなかっただろう。不思議な縁である。
さて、次のお話は…
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