睡蓮(花まくら より 006)
私の通っていた小学校には、小さな池があった。池といっても自然なものではなく、コンクリートで周囲を固めた、ささやかなものである。それがダルマのような形をしていたので、通称ダルマ池、と呼ばれていた。
ダルマ池には、ダルマの上の丸と下の丸の間、首の部分に飛び石が二つ並んでいた。ダルマ池は低学年の下駄箱の近くにあったから、私は小学校一、二年生のころ、朝夕の登下校の際に、いつもダルマ池の飛び石にしゃがんで、池を覗き込んでいた。
池の中には金魚が住んでいた。繁殖した藻で緑色によどんだ水の中、金魚の朱色がチラチラとひるがえっている。メダカもいた。ザリガニを入れた男子がいるということも聞いたことがあるが、長生きしなかったのか、私はその姿を直接見たことはない。私はダルマ池の小さな世界を眺めるのが好きだった。よくそこに座っていたので、先生から、落ちないでね、と言われていた。時々、落ちる子がいるらしい。私も一度か二度、落ちたことがある。実は、落ちてみたことがある、というべきなのだが。
理由は特にないが、じっと水面を見ていると、落ちてもいいかな、と思えてくるのである。もちろん、これがダルマ池だからで、落ちたって、たかが知れているとわかってのことだ。本物の川や水辺だったら落ちれば命も危ないとわかっているから、落ちてみようかな、などとは思わない。ダルマ池だからこそ、落ちてもいいかな、と思えてくるのである。ダルマ池だって、小さかった自分には、その深さがどれくらいあるか、検討もつかない。まぁ、深かったからって、たかがしれていると、よく考えもしなかったから、落ちてみようなどと思ったのだろうが。
落ちてみる、というのは、思い切ってのことではなく、スーッと、なんとなく前のめりになって、腕からボッチャリ、という具合である。あー、落ちたぁ、という周囲の声を聞きつつ、ダルマ池の中に立ってみる。なんということはない、子供の腰ほどもない、せいぜい四、五十センチの深さの程度である。池の底はぬる付いていて、巻き上がった土と藻で、普段にましてよどんでいる。金魚が慌てふためいて、逃げまどう。私はそれを眺めつつ、泣きべそをかく振りをしながら、池から上がる。どうしようもない悪ガキである。我ながら、ちょっと(ちょっと?)性根がひねくれている子供だったと思う。きっと、落ちたらどうなるかなぁ、などと、考えること自体、変わっているのだと思う。もしかしたら、考えてみた事のある子はいたかもしれないが、実際に落ちてみる子はまずいなかったと思う。事実、ダルマ池に落ちる子は滅多にいなかったし、私が二度目に落ちた時には、わざと落ちたんでしょ、と言われたものである。そもそものところ、気をつけていれば、落ちる訳がない池なのである。一段高くなった花壇の中にあって、近寄る理由がないし、飛び石だって、上が真っ平らでそれなりの大きさがあり、足を滑らせるということも考えられない。よっぽどのドジか、それとも後ろから押されたとか、そういう事情がなければ、落ちることなど、ありえないのだ。そこに一度ならず二度落ちたのは、私だけかも知れない。
私は、ダルマ池が好きだった。
金魚も良かったが、睡蓮も良かった。睡蓮は六月に咲く。五月ごろから水面に睡蓮の葉が芽吹き始める。初め、まだ水中にあるころ、葉は内向きに巻いている。水中から紐のような茎と共に葉が伸びてきて、やや水面より下で、葉が開く。丸い葉っぱである。イラストなど絵で睡蓮を描くと、お決まりのように睡蓮の丸い葉にくさび形の切れ込みが入っているがあるが、あれは葉っぱの左右が成長と共に扇のように開いて、扇の左右の端が閉じきらない、そういう形である。梅雨の時期、雨の中、傘を差してダルマ池を見つめている時に気が付いた。
雨のダルマ池は素敵である。ことに梅雨の時期、睡蓮を見るのが格別だ。どこまで深いかわからない、緑色の水底が、雨だれがつくる水面の揺れで、ますます陶然とわからなくなる。水面に並ぶ睡蓮の丸い葉の隙間から、蕾がのぞいている。茎は水底の一点から、放射線状に伸びている。雨粒が葉に当たると、パチンとはじけて、水たまりになる。ハスと睡蓮の違いは色々あるが、葉っぱの表面の質の違いも一つである。ハスの葉は水を弾いて、コロコロと球になる。いわゆる撥水素材である。葉の表面は、なんとなくマットな質感で、触るとサラサラしてる。睡蓮の葉は水を弾かない。雨粒が当たると、パチン、とはじけて、そして濡れるのである。こちらは、例えて言うならビニール素材である。葉の表面も、ビニールみたいにツルツルしている。水に強いのはどちらも同じだが、雨に降られながら、じーっと見ていると、違いが見えてくる。
睡蓮の花が咲くと、普段はダルマ池に興味の無い同級生も、誰も彼も、睡蓮の花を見に集まってくる。咲いたんだって、咲いたんだって、と連れ立って、睡蓮の花を見にくる。そうなると、私はなぜかつまらなくなってしまい、ダルマ池を遠巻きにする。雨が降る日にダルマ池に来る子供はいないから、雨の日くらいしか、ダルマ池には行かなくなる。
水面に咲く花の良さは、顔を近づけて見られない事である。水辺のふちから、遠巻きにするしか眺められないから、逆に気をそそられる。そういう良さがある。つんと先の尖った、ほんのり桃色の花弁が、品良く何枚も重なって、真ん中に黄色の芯がのぞいている。睡蓮の花は可憐で清楚な花である。色は、まず第一には白。次に淡い桃色、次に白が行き過ぎてちょっと緑がかったようなもの、または桃色が濃さが多少異なるもの、花弁の縁がピンクの物、これくらいである。黄色とか、赤とか、そういう物もあるらしいが、これは特別変わった睡蓮を集めて育てている場所でなければ、目にすることはない。
私も育てて見たいな、と思って、何度か挑戦の入り口に立ってみたことがある。五月ごろになると、夏に向けて睡蓮鉢というのがホームセンターに並ぶ。小さいものでも五十センチくらいからで、私が住んでいる京都では土地柄か、信楽焼(隣県の滋賀県の特産)風の渋い茶系の陶器製が多い。深さも五十センチくらい。半球型で、玄関先やベランダに置こうと思うと、かなり大きいものである。睡蓮、育ててみたいなぁ、と思って眺めるのだが、いつも、ついに買うに至らない。ちょっと試すには、大掛かりすぎるな、と、ためらってしまうのである。夏が終わった後、シーズンオフになったら片付けておく場所を用意することまで考えてしまうと、もうダメである。
でも、今年は、と思っている。器にこだわらず、いっそバケツでやってみてもいいのではないだろうか。バケツなら、家にいくつもある。私は京町家が立ち並ぶ一角に住んでいるので、町内から防火バケツをもらうのである。いざ火災となった時にバケツリレーをするためのバケツなのだが、プラスチック製は直射日光で痛むとかで、ちょくちょくもらうのである。深さは六十センチほど。直径は睡蓮鉢より小さいが、深さは十分だ。その中の一つで、睡蓮を育ててみたらどうかと思うのである。ちなみに、防火バケツは真っ赤である。真っ赤なバケツに、緑の葉っぱ、白い花、なかなか良いかもしれない。
睡蓮の花が咲いたら、やってみたいことがある。とっくりじっくり、花に顔を近づけて、心ゆくまで、眺めてみたい。長年、触れもできず、遠目に見るだけで憧れたあの令嬢を、思う存分、検分してやろうと思うのである。見るだけでなく、触ってもみようと思うのである。そして、バラバラにして、中がどうなっているのか、確認してやろうと思うのである。私の祖母は園芸好きで、色々な花を育てていたが、睡蓮は育てていなかった。つまり、私が今まで見てきた睡蓮は、どれも「ヨソ」の睡蓮だったから、指をくわえて、良いなぁ…と見るしかできなかったのである。
お行儀は悪いのであるが、昔から、睡蓮の花ってどうなっているのかなぁ、と興味があった。ことわざに花より団子、というのがあるが、この場合は、なんというべきだろうか。
自分は変わった子だった、という自覚があるのだが、それって今でも治らないな、と思いながら、いつホームセンターに行こうか考えている。暦は明日で六月になる。睡蓮を育てたいなら、早く始めなくてはいけない。
さて、次のお話は…
前のお話は…
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