楽しくなっちゃうから piece_vol.85
とても穏やかな休日。お腹もいっぱい。さてどおしようかなーとか思いながら窓辺で外みてたら、フと窓サッシの汚れが気になる。外からの砂がたまっておる。
・・・。見なかったことにしよう。。だってこんなにいいお天気なのよ?お散歩日和よ?まったりするのにも最高よ?と一気に脳内会話が炸裂し、それを聞きながらいったんお茶を飲む。
ふぅ~。やるか。
お掃除用具取り出してゴシゴシ始める。そう大変でもなく綺麗になっていく。
お? ・・・。楽しくなってきたぞぉ。
年末掃除の時には体力続かずやらなかった所。思っていたより簡単に片方が終わり、もう反面へ。反面もあと少しで終わろうとした時、ふと気が付く。
あ。楽しくなっちゃうからやりたくなかったのかー。
この訳わからない理屈。もともとコマコマした作業は嫌いではなくて、掃除はやったそばから綺麗になるという結果が実感できるから苦手ではないのだけど、如何せん腰が重い。鍋やケトル磨きとかタイルの目地掃除とかそうそうやらないけれど、やり始めるとずーっと飽きるまでやってる。そして翌日身体がアタタとなったりする。
いまは加えてチョイ身体の動きにくさがあるから、以前のようにちゃっちゃと素早く出来ないし細かな部分は希望通りにならなかったりするので、それがストレスになっちゃったりして、身体のせいにして見ないふりをしてる自分を分かってる。そう、分かってる。分かってて、やらない。分かってるから、やらない。
で、掃除途中でポン!と湧いてきた言葉。「楽しくなっちゃうから」。
そっかー、楽しくなっちゃうの分かってるからやらないのかぁ。それを身体への負担とかのせいにして。楽しくなっちゃうからねぇー。
自分の内面に触れた時、見たくないと思っていること。見なかったことにしたこと。見ようとしないこと。
それらに対して表面上は「避けたいこと」「嫌なこと」とか思って無意識にでもそうしてるように見えますが、実は心のどこかで「分かってる」事だったりします。何が分かっているかは分からないけど、ナニカがわかってる。
その香りのようなものがわかるから、敢えて見ないようにしたり見なかったことにしたり。その時の思いは「嫌だから。コワイから。」とか、そんなネガティブモードでまとわれてます。
なのですが。
その敢えて避けようと「自分」が働くものって、それがopenになることにより、本来のジブンにとってはヨキ事だったりするのですよね。
今回の掃除のように。もう楽しくてたまらなくなっちゃうわけです。理屈なく喜んじゃう。それっていいことじゃないの?と思うかもですが、「自我(エゴさん)」にとってはその間出番がないので困るわけです。本気で喜んでる時は思考はありませんから。単純に、「楽しい!」です。
「自分が」掃除してやってるーとかも無いワケです。単に目の前で綺麗になっていくその様子が可笑しく楽しい。で、夢中になってやってたらいつのまにか全部綺麗になっちゃったみたいな。この時「時間」も飛んでます。
何が言いたいかというと、「自分」というものをKeepさせたいがゆえに、表向きはネガティブ的なものでおおって遠ざけようとしてるけど、ホントはその覆いを外して踏み込んでみたら、もともと本来のジブンのヨロコビに繋がるものが潜んでますよーって事です。
宝探しゲームのわかりづらい地図のような感じ。敢えてネガティブでカモフラージュしてるみたいな。
本質は気付いてるんです。なんとなくでも。だから「分かっちゃいるけど」になる。
外側の世界に現実味をあたえるには「自分」というものが確固として存在していると思えてないと面白くなくなっちゃうから。ストーリーにはまれなくなっちゃうから。映画を観ていても引き込まれない、みたいなそんな感じ。
この対極がある世界では、どちらかを味わうにはもう片方が存在しないといけないんですね。片方だけはあり得ない。
もともとの本質が言葉で無理やり現せば愛とか光とかですから、その本質を思い出す旅(今世の人生)を成立させるには対になるものを経験しとかなきゃならない。
なもんで、幼い頃の環境とか成長過程での嫌な経験とか様々な事でその対となる「思い/感情」などをくっ付けまとっていきます。
後ではがすために、まといます。わざわざ。
まとってるだけなのでその本質は1ミリも変わっていないのですが、既に現実というものをリアルに感じ「自分が」この世界の中で頑張って生きているというストーリーが絶賛上映中なので、そのまとった物らは重く苦しくなり、まとってることすら気付けなくなります。
いま全体的に何が起きているかというと、このまとってるものが重苦しくなり、違和感となって「何かがオカシイぞ」となり始めている人が増えてるんですね。ものすごい勢いで。
で、その頑張ってまとってきたものを脱ぎ捨てて少しずつ身軽になるのですが、この時ヤッカイなのが、まとってるものが重かったり苦しかったり感じるものらなわけです。対だからしかたないんですね。
なのですが。
「楽しくなっちゃうから」見たくないとしてるなら、それこそ楽しいわけです。
楽しくなっちゃう → 歓び → 幸せ ならば、幸せに感じることが分かっているから、蓋をしちゃってるってことで。ほんと、ワハハです。
なーんてややこしいルールにしてるんだと思っちゃいます。
嫌な経験してない人なんか、ひとりもいません。何らかの形で苦しみや悲しみも経験しています。誰でも。
でもね、ちょっとだけ視点を変えてみて、それが後からジブンの本質を思い出すためのフラグだったとしたら。
重ければ重いほど、苦しければ苦しいほど、対となるものが現れるということです。
幸せを感じるために敢えてしてきた経験なのですから。
無理やりひっぺがえすものでもなく、その人なりのタイミングが訪れたときは理屈なき小さな覚悟みたいなものがきっとあるのだと思います。もしくはそうせざるを得ない状況になるか。
その時ちょっと思い出せばいいと思うんです。
「ヨロコビに繋がるものが隠れてる」と。
気付きというかたちで覆いをはがしていくと、足りなくなるわけではないんです。
はがした分だけ、ジブンの内側が太くなっていくんです。本来のジブンへの信頼が深くなり、覆いをはがすのも楽になっていきます。
それらを「自分が持っていた」のではなかったと気付きます。自分に染み付いてたものではなかったと。ただのカモフラージュだったと。
「自分が」で苦しむ必要はなかったのだと。
そして、中庸、真ん中、ゼロでよいのだと。
陰陽どちらもあってどちらにも傾いてどちらでもアリでよいのだと。
楽しくなっちゃうから
やだなーと思わせてくれる
なんともオチャメな世界です
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