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留まらず 詰らせず

ふと「出す」ってやっぱり必要だよなあーと思ってみたりした。

このところ自分も環境も変化の速度が凄まじく、それに加えて忘れる速度もえらくスピードアップしてるので、「あの時何でこうしたんだっけ?」というような素朴な疑問に自分で答えまでたどり着かない。
忘れてしまう事自体にはそっちの方がいいと思ってるしそれで何ら問題ないのだけど、全体的な「流れ」とかを改めて見たいときに、その場ですぐに腑に落とせないのがなんか気持ち悪いのかなと思う。
なので日誌ではないけれども、ノートにその日にあったポイントとそれに伴う自分の感情などを適当に書くようになった。
「適当に」が案外良く、これを「毎日これとこれを必ず書く」とか決めちゃうと、私の場合「そうやらねば」が発動するので、また自分に要らん囲いを作ってしまう。
それまたメンドクサイので「後から見て何があったか」だけ分かればヨシとして適当に。

よく何かのワークとかで「紙に書き出しなさい」とか見たりするけど、見た時点で「めんどくさいなー」と思ってしまうのであまりやった事はない。
けれど適当に書くようになって「なるほどねー」と思うようになった。
書く内容が大事(その時によってはそれも大事なんだろうけど)なのではなく、「出す」という作業自体がよいのね。
「書く」のは頭使って書くから「思考/思い」を出すことが出来る。内容は何であれ、頭のなかの思考や思いが出ることで抜ける。
本来思考でも思いでも感情でも、スルリと抜けて流れてるもの。持ち運ぶものでもないし、溜めとくものでもない。
けどいつのまにか頭のなかでグルグル回ってたり、「覚えとかなきゃ」でどっかに引っ掛けといたり。それ以外にも無意識になんか溜め込んじゃってたり。
「思い続ける」なんて、悪いが私には重すぎて出来ない。なんなんだ?「思い続ける」って。どれだけ自分に溜め込もうとしちゃうんだろ。
そんなもの「思い続けよう」なんてしなくても、その場になれば勝手に思いは湧いてくる。それに任せてれば楽なのに。

そうそう「出す」と言うことだった。

結局のところ、そもそも「溜めとく」事が出来ない機能が「人間」「身体」なのに、溜めようとしたりいつのまにか溜まっちゃったりしてるから、身体がキツクなったり気持ちが重くなったりしちゃう。
だから何のやり方でもいいから「出す」と楽になる。
これ、そもそもいつでも自然にやってる。
呼吸だって吸ってばっかりいられないし、もの食べたらちゃんと出るし。細胞レベルですら、定期的に古いものは捨てられ新しく入れ替わってる。
だからきっと、その人それぞれ身体に留めておける許容範囲ってのがあるんじゃないかと思う。本来「流れてる」のが自然なことだから、その人の溜めておける許容範囲越えた時に、身体壊したり精神的にまいってしまったり。
「思い」は勝手に消えてはくれるけど「出て」はくれないから出してあげないと。

「出す」方法は何でもよくて。
今回の私のように文字で書いてもいいし、絵を描ける人なら何でもいいから描けばいいし。歌唄っても、運動で身体動かしても、ロクロ回して何か作っても。
子供と遊ぶのだっていいし、料理作るのも。
とにかく「身体」という機能を使って、出す。
頭のなかでああやってこうやってと計画立てるのもすごく楽しいけど、そこで終わりだと「出て」ないから、それを紙に書くとか。
頭の中に現れたものを、身体の外に出す。
なんでもいいから。

そうすると、頭のなかでグルグル留まっていた思考や感情が流れ出すから、隙間が出来る。
隙間が出来るとまた新しい思考も湧きやすくなるし、何かどん詰まりに感じてた事でも解決策なりアイデアが浮かぶかもしれない。
どん詰まりでなくても流せば流すほど循環良くなるから、色んなものがスムーズになる。
楽になる。

よろしくないのは、せっかく何か思い浮かんだのに「でもなー」と出来ない理由とか探し始めちゃって、何だかんだで動かずで終わること。
そしたら浮かんだアイデアは行き場失って、その時は忘れちゃったり消えたように思えるけど、結局は思考グルグルの仲間になっちゃう。
それが良いアイデアだったとしても。
良かろうが悪かろうが「思考グルグル」は詰りの元だから同じこと。
「思考」に良し悪しは、なし。

だから「あ。」と思ったら、思考があれこれ理由つける前に動いちゃう。
身体が動き始めると面白いもんで、そのまま流れで動いたりする。
動いてる最中にまた次の「あ。」が出てくるから、そしたらまたスグそれやればいい。
取り敢えずやってみる。
それは「流れに乗る」のひとつの方法。
身体の流れに乗る。
「あ。」というきっかけをつかって。

途中で何か違和感出てきたりしたら「違ったなー」で別の「あ。」をやればいい。
そこに間違えも正しさもなくて、そもそもそこまでやったから「違った」ってわけだから、やらんでいつまでも頭のなかでグルグル考えてたって、「違う」までたどり着かない。
そこまでの作業は「それは違った」という確認作業だったということ。
なんかそうすると遠回りしてるとか無駄だとか思っちゃうかもしれないけど、ずっと頭のなかで「どっちがいいんだろう」と考え続けて詰り続けるのと、どっちが無駄なんだろう。
そもそもそれって考えてる間じゅう苦しくないんだろか?

で。
「どうやったらいい?」てどうしても湧いてくる。やり方知ってる人に聞くのも確かにアリなのだけど、聞けるのは「やり方、方法」だけ。
「それやるとどうなる?」は見当違い。
だってやってどうなるかなんて、人によりみんな違うんだから。
「こうなるよ」って教えて貰えたって、それはその人が「そうなった」だけで自分もそうなるとは限らない。
だから自分でやって、自分の思いを出したものが「こうなった」もの。
それはやり方教えてくれた人の「こうなった」とは別もので、別ものにしかならない。
「こうなるよ」って聞いたって同じものには絶対ならないのだから「ならなかったじゃない」とまた訳分からない詰りの元を作るよりかは、とっとと教えて貰った方法をやってみる。
それだけ。やらないと自分なりの「こうなった」までたどり着けない。

思考に思考を重ねても、思考からは抜け出せない。
そこに「身体」という機能を使わないと。
せっかくあるのだから。


取り敢えず出してみる。

そしたら違う景色が現れてくるかもしれない。

だといいね。

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