まとわぬことでみえるもの
都内でも1桁が最高気温で身体がキリリと締まる。昨晩はすごい強風でベランダの植木がすっ飛ばされ、慌てて屋内へ入れた。今日も風は強い。ああ、お掃除してるんだなーと感じる。
風が強いぶん空気は澄んで。
届く光は様々を透かしてあらわにする。
黄色く染まっている神社で買ったばかりのベーコンエピを頬張り、くるくる舞い降りる落ち葉と遊ぶ。
幸せだなーと思う。
緑のときも、ワサワサと葉が生い茂っているときも、黄金に輝いてるときも、少しずつ装いをふるい落としいく最中も、どんな時でもどんな形でも綺麗なんだよなー。
すべての葉が落ちその姿があらわになったときが、一番好きかもしれない。
幹と枝だけの様は寂しく感じることもあるかもしれないけれど、そんなことはない。その凜としてたつ美しさ。そしてその何も纏わない中には、次の息吹のあらゆる可能性が秘められ含まれてる。それらを静かに抱えながらそびえ立ち冬を過ごす姿は、寂しさよりも期待を感じる。
色とりどりの葉を纏いそれらと遊ぶ姿も好き。宴が終わり本来の芯の姿であるのも好き。
どちらも、ただただ美しい。
土台の裾野が果てしなく広がる。遠く、遠く、どこまでも遠く。
細い光の糸があらゆる角度で身体の周りに円を描く。そう、繭のように。
ひとつひとつは細い光だけれども、その回転で球となる。
整えられたハートは、∞のくぼみ部分がハートの中心となり八の字を描いて光を放つ。これがくぼみを中心として回転するとき、円を描き球となる。
自ら描いた円のなかに己がおり、己のなかに自らがある。
明るいものだけが光で暗いものが光でないわけではない。
目に見えているのは、光の屈折の違いだけ。
すべて光しかない中で、この目が拾える範囲でグラデーションを楽しんでいる。
光がないのではなくて、光しか、ない。
そして自分が見ている目の前の景色は完全オリジナルであり、まったく同じようには誰にも見れない。他の誰かの見ている景色を同じようには自分が見れないように。
それは
思考も感情も感覚も体感も体験も同じことで。
たから
答えはジブンにしかない。
答えというものがあるならば。
ソトとウチの境目はどこにあるのだろう。
何がそう思わせてるのだろう。
この目に映るものが単なる光の屈折の違いで、もとは光なのならば。
その光のなかに自分のこの身体は入っていないんだろうか? この目に見えているこの身体だけが光でないということがあるのだろうか?
自分の身体が光だなんて
こそばゆく感じるかもしれないけれど。
もちろん物理的に言えば細胞があり、素粒子やら振動やらとなるけれど。
自分は 何を 視ているのか。
ゆっくりと ゆったりと
ジブンの真中へ戻る。
見えているもの聞こえているものを脇に置いて、静かな時間に佇む。
ジブンの 安心 の中にひたる。
そこから
ものを観、ものを聴く。
見せかけの自分や
取り繕いの自分、装いの自分、あるべき自分、
そういった幾多の自分も脇に置いて
肩書きや名前、役割、意味付けされているものをすべて外して
まっさらのジブンへ飛び込んでみる。
なにも持たない、なにも装わない、なんでもないジブン。
あらゆる纒をはずしたその姿は
本来の持ちうる輝きがあらわとなる。
とてつもなく美しく
安らかで
穏やかなり
誰でも己のなかにそれがあり
いつでもそこに在ることができる。
その陽の光は
外側で輝いているようで
ジブンのなかでも輝いている
四方八方にひろがりながら
あますことなく
ジブンを輝かせている
たとえ
自分がどう思おうとも。
今年最後の満月が訪れる。
この一年で何が満ちたのか。
自然というサイクルとともに流れ
森羅万象のひとつで在る。
すべてがうつりかわり
すべてがながれる
なにひとつ
とどまっているものはない
満ちたようで
それもまた変化していく
摩訶不思議な
このセカイ