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かるさとかそくと_piece vol.36

春分越えてじぃーっと色々観てきたけど。
毎日空は違って日を追うごとに軽くなって優しくなって。時たま優しさの中にピンと通るようなものがあったりなかったり。それでも「大丈夫よ~。安心してね~。」みたいなものはいつも感じる。大いなるあたたかさ、みたいな。陽気のせいかしら?とも思ってみたけど、どうもそれだけではないらしい。

春分前までの "起き上がる前の屈んで潜んでる感じ" がバーンと外れてすくっと立ってみたら「あれ?」みたいなのがここ数日続いている。まだよく分からない。でも何かが違うのは明らか。
なんつーか。物事の進み具合がやたら軽くなってる。前と同じ感覚だと肩透かしのようなのをくらってみたり。「え?これでいーの?」みたいな。段階すっ飛ばして想像外の方法で気が付いたらスンナリ事が完了してたりする。

こうなってくると。
何か事が起こったとき、どうしても以前あった記憶が呼び起こされて手順やら方法やら感情やらワサワサ出てくるけれども、そっちばかりに気を取られて以前ありきで事に当たるとモッタイナイ気がする。せっかくより良いものがどこかで待機して出番待ちしてるのにブレーキかけちゃうようなもんだから。
「前こうだったからこうだよねー」とか思ってると、そこしか意識向かない。そばで「こんなんありまっせ!」と旗振ってるのが目に入らないし、飛んできているアイデアとかもキャッチしづらい。

ってなると。
やっぱり過去の産物は「もう使えないのかも~」と常にどこかで思ってないと、自動反射的に出てくるそれに巻き込まれてしまう。
今までの培ってきたやり方って、笑っちゃうくらい何重にもなってしみついてて時たまビックリする。「あれ?これこの前外したはずだけど? おー!更にその外側かいっ!」みたいにハタと気付いたりする。違う角度でまだ大事に抱えてたり。これって多分ずーっと出続けるのだろうから、もういちいち落ち込んでなんかいられない。「もう無いハズ」とどこかで思ってるから、また同じことやっちゃったりすると凹んだりするのだろうけど、初めっから「ずーっと出続けるもの」と思ってりゃー「あ、また出たね。」と軽く済む。「また出た」と思っても、それは何重にもなってるやつが1枚ずつむけてる訳だから前と同じじゃない。その分軽くなっていく。

「また出た」時に「何でいつまでも変えられないんだろう」とか「だから私は」とか昔のやり方感情に乗っかっちゃうと、今は進むのが早い分そちら側にも当然ぐぅーんと引っ張られるのが大きくなる。以前より。振り子のように。
で、ここでありがたいのはもンのすごく軽くなってきてるから、そんなのでいつまでも自分を責める必要も深掘りする必要もなく(以前は自分を深く観る方が良かった時もあったけど)、単にお出ましになった過去の産物を「出てきた!」と気付いていったん認めてしまえばそれでいい。じくじく深く見つめ直すのに慣れてる場合はあまりにもあっけなく感じるかもだけど。


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それよりも。
ちっちゃな事でいつの間にか自分を非難したり否定してたりしてたんだね、って事に気付く方が大切かなと日増しに感じる。
「え?これも?」みたいなちっちゃな自己否定とかいっぱいある。早く起きようと決めてたのに起きれなくて「もーぉ!いつもこれだ、わたしは」とか、誰かとの会話で相手を非難する感情が湧いてきて「これではいけない」とか。気が付かないうちに自分を責めちゃってたりする。これ、あかん。
しかも本人気付かないうちにもう次に流れちゃうから、どんどんその「小さな」のが溜まってっちゃう。
そもそもそう思った感じたってことは「自分で自分をどーにか出来る」とどこかで思ってるわけで。自分を本当の意味でコントロールなんて出来ない。自然のモノだから。

だったら。
要らんものが出てきた時は「おー出てきた出てきた。こんなん持ってたかー。今までこれに助けられてきたんだよなぁ~ありがとさんねー」と出てきたものは認めて、それを見逃さず気付けた自分を誉めてあげればそれでオッケ。それくらい軽くなってきてる。
初めは以前の「なんでまた同じこと繰り返して」とか思っちゃったりするけどそのうちこの軽さでハタと気が付いて、同じことを繰り返していると同じように思っている自分に「ケケケ」と笑ってしまう。
あとは自然の流れにオマカセする。結果は自分が取りに行くのではなくやって来るもの。訪れもの。自然モノ。


なんでかなと言うと。
気付かないうちに溜め込んでる小さな自己否定とか、やたらキモチワルイから。キモチワルイと言うことは、自分の中心からズレてる。「反省」や「自分を省みる」は一見正しき事のように感じるけれども、いやそう感じてたけれども。反省してる裏に小さな自己否定が潜んでいるのを見つけちゃったら、それが自分の中心からもずらしちゃってるなあと。
反省そのものは別にいいのだけど、それずーっとグジグジやってると自己否定も増やしてるようなもんで。だからやっちゃった事はそのまんま認めて、それでオシマイにする。


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今まで「ヨキこと」と思って自然にやっていたことが、反対側にそれと対峙して引っ張るナニカがあったりする。それがこれからどんどん見えやすく気付き易くなってくるんじゃないかなと思う。
「ヨキこと」の定義も変わってくる。不動のものなんてなにもない。で、外の世界もそうだけどやっぱりタイセツなのは自分の内側で。
その外側の「ヨキこと」が自分にとってのヨキこととは限らないし。変わっていいし。まわりと違っていていいし。自分のヨキことがまわりとちょっと違うんだなとわかれば、まわりの違いも受け入れられるようになるし。
自分の「チガイ」を受け入れられないと、やっぱりまわりの「チガイ」は受け入れにくいかなあと感じる。
何はともあれ先ずは「自分」から。
自分の変化は必ずまわりに波及する。




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まだ「新しい時代が始まった」と言われてからそんなに経ってないのに。
これからどれくらい変わるんだろう。どれくらい早くしなやかに変化するんだろう。どこまでその変化を観ることが出来るんだろう。
実際変化はずーっとしてて、ただその加速度がギュんとあがったのは最近でまだ身体も慣れてなくて。
別にこんなこと気にしなくてもフツーに生活はもちろん出来るしこの変化にも気付かないうちに順応してくからそれでよいのだけど。
まあアタシはその変化で右往左往してなだらかに順応していくよりも、その変化を感じながらキュッキュッとやってく方が好きなんだろうなあ。

まあこれが愉しいからいーやね。

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kitoma
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