見出し画像

そこは安らかかい?

節分の今日は旧暦で言えば大晦日
ふしを分ける日に
鬼はそと福はうち と豆をまく

由来は諸説あるみたいだけれど
新年への切り替えに
心のなかの邪(鬼)は出して
福を呼び込もうというもの

斜めな観方をすれば
外側に見えているものはオニ
内側にみえているものはフク

でもって 鬼はワルモノではなく
ただその担当をしてくれているだけ



月イチのマルシェへ立ち寄り
無農薬のお野菜らを幾つか買って
お店の人とお話すると
ほーぉ へーぇ と
知らない事いっぱい出てきて面白い

何たってその道のプロの方だもの
どうすれば美味しく食べられるかとか
どう加工できるかとか もう盛沢山

そしてステキなのは
ひと世代下のそういった人たちは
アイデアがいっぱいでキラキラしてて
話をしていても次から次へと出てくるから
まったくもって飽きない



もう完全に旧世代とそうでない世代の
思考形態が分かれていて
これは歳だからとかそういったものではなく
年代関係なくキラキラしている人はいるのだけど
頭のやわらかさと言うか
囚われのなさと言うか
そういったその人の持っているものが
顕著に現れてきているなあ

これはこれからもどんどん加速して
どんどん 話の通じない人 や
会話が成り立たない場面 が
現れてくるんだろうな

相手の人がどーこーではなくて
元々の見えてる立ち位置が違うから
そこにくっつけている意味づけも
僅かな重なりもなくなってきて
まるで外国の人と話しているかのように
同じ日本語でも会話が出来なくなる

ある意味これが
極化 でもあり



さて本格的に2024年が始まります

エネルギーもまた変わったようで
お水さんが更にやわらかくなりました

いまいま起きやすいのは

意識の向いている方向へ
一気に引っ張られ飛ばされ易くなっていて
そこに現状への確認のようなものも
含まれていて

これでいいですか?
これがあなたの本心からのものですか?
と 何度も何度も尋ねられるような
そんな感じもして

じぶんの本心への確認と
その深さというか透明さというか
そんなものも観るように
様々が起こっているようです



でも最近思うのは
それが本心かどうか よりも
それがオソレやフアンから来ているかどうか
の見極めのような感じもして
今まで無意識に持って使っていたものを
目を向けて 意識的に使えるように
そんなサポートのようにも感じています

オソレやフアンからやっている事でなければ
不思議なくらいスムーズに
トントンと事が運ばれます

何か引っかかりや違和感があるものは
見えてなくてもそう思えなくても
どこかにオソレやフアンが隠れてたりするので
「何にオソレている?」と静かに問うと
しゅるると消えたりします

オソレている事がワルイ事ではないけれど
オソレから動くことは古いやりかたなので
今の流れには重くて

今はこれまで沢山溜め込んで
充分楽しんできたオソレやフアンというものを
対義とは言わないけれど
安心や安らぎへの転換が始まっているから

その本来我々のもとである
安心や安らぎを思い出すために
溜め込んだオソレらを見つけて
自分というものから放してく
そんな作業です



過去や未来というものに
意識が飛んでいる時と
いま という所に
意識が向いている時とでは
身体の反応も心の反応も違って
それは
小さな体験を重ねることで
だんだん そうなのか と
なってくるようです

そのうち いま という
ここに意識が向いていることの
心地よさが感じられるようになって
そこから離れたときの違和感に
反応しやすくなります

この 少しずつ
小さな一歩 が
一滴の雫となり
やがてあふれ出すひとつです



オニもフクも
じぶんのなかにあるからこその
このセカイです

いいなと思ったら応援しよう!

kitoma
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。