留まりをみるためのもの
ものごとは、順番に一番のタイミングで現れてくるので大丈夫です。
そこに思考や自我意識であれこれ文句や注文をつけさえしなければ、自然の流れがそのまま運んでくれます。知らないうちに。
後になってみれば、すごい障害だと思っていた出来事や、なんだか遠回りしてるような気持ちになっていた出来事も、その時は観えなかった点と点が繋がり、ああそういうことだったのかと気が付けたりします。
後になってみれば、がミソで、どうやらその真っ只中ではなかなか気が付けないようになっているみたいです。
真っ只中に色々出てくる思いや感情は、その点と点が繋がるために、自分にはそんな思いや感情があるのだと確認するために現れてきます。
自分にとってあまりヨロシクナイと思える出来事で湧いてくる思いや感情は、もう今の自分には必要のないものであり、その出来事を通してそれを観るために、自分の内側に目を向けなさいよという流れだったりします。
起きている出来事は中立で、それに意味付けをして出来事が膨らんでいるかのように現実がみえますので、その意味付けをしてるのはどこなのか、を観れば、起きている出来事自体は中立のまま流れていきます。
意味付けをしているのは自分の頭の中の記憶や経験からくる言葉ですから、結局は自分の方に目を向けない限りは、また形を変えて同じような出来事が訪れます。気が付くまで。
気が付くために出来事が起こるようなものですから、逆に言えば、日常という流れは全てが気が付くためのヒントが至るところに転がっています。目を向けようとしていないだけで、意識をそちらへ向ければ、気付きのヒントのほうからこちらへ向かってきてくれます。
「見つけてよ」と言わんばかりに。
全ては自然に流れています。
その中で滞りを感じるのならば、自然が流れていないのではなくて、自分の中がそこで引っ掛かりを起こしているだけで、それを外側がスムーズに流れないと感じているだけです。
出来事は常に中立でヨシアシなく淡々と流れています。
ある意味それはものすごい恩恵であると思うのです。
誰のせいにするわけでもなく、何かのせいにするわけでもなく、自分の中で、自分を観ることで解消できるのですから。
そしてその自然の流れは、自分の策略や計算をも飲み込むかのように、後になって観れば自分にとって一番ベストだったと思わせてくれるのです。
わからないということ、
知らないということ、
それでいいんだということ、
それらを少しずつ深めてくれる
大いなる
自然の流れです。
ありがたいです。