見えないから 感じられるもの
時々立ち寄るちょっと離れた所にある八百屋さんで、先っちょだけチョンと切られたトウモロコシがお安く売られてる。
「これ、下の方は大丈夫なのー?」とおじさんに尋ねると、「大丈夫だよ~。先だけね、熱中症になっちゃったの。」と返ってきたので「そっかぁー。熱中症なら仕方ないねぇ。」と笑ってしまう。
親子連れのお客さんが来て女の子が「暑いねぇー」とお母さんに言っているのを聞いてすかさずそのおじさんが「暑いねぇ~。でもね、すぐ涼しくなるよ。でね、すぐ寒くなって雪降るよ~」って話し掛けてるのを聞いてまた笑う。
別のお店に立ち寄ったら、奥から出てきてくれたおかあさんが「お暑い中来てくださり、ありがとうございます」と声を掛けながら買った物を渡して下さる。
下町ならではのやりとり。スーパーはとても便利なのだけど、こういったものは生まれない。
おじさんの言葉には嫌味も押し付けも全くない。言葉の魔術師みたい。ポンポーンと小気味いい音が辺りを包む。
おかあさんの言葉は業務的な何かではなく、心底そう思って言ってくれてるのが伝わってくる。寄ったのが丁度日照りの強い時間帯でお客さんも減ってる頃。だからこそ「こんな暑い中にわざわざ来て頂いて」と思って下さったのかも知れないけれど。
近所は殆んど個人経営店で古くからやっている所なのだけど、いつ行ってもホントにあったかい。
「ありがとうございました」の一言が、大型店やチェーン店のマニュアル化された音の響きじゃない。ちゃんと人間の言葉で届いてくる。
越してきたばかりの頃、どれだけこの土地柄に救われただろう。近寄りすぎず、でもあったかい。なーんかこういうのいいんだよなぁー。ほんわかして安心する。
都会ではみんなが忘れてしまったナニカ。
熱中症かかっちゃったトウモロコシ頂いてお家で直ぐ処理しようとしたら、まーったく問題ないプチプチの黄色い実が詰まってた。
ありゃりゃ。熱中症かかっちゃったとは言え、こんな元気なのがあのお値段じゃおじさんも大変だなぁ。
お陰さまで我が家の冷蔵庫に美味しい蒸しトウモロコシが仲間入りした。ありがたい。
空は空なんだ。確かに空なんだ。
そっちが真理で疑いようのない真実で、そして何もない。無いすら、ない。
その空だからこそこの色の世界が豊かで美しくて。愛おしくて不可思議。
過去があるとするならば。
その何千年にも渡る積み重ねで人間が築き上げて、同時に忘れてしまったもの。
でもそれは忘れてしまっただけで、どんな人でも誰でも心の奥底に脈打っていて見つけてくれるのを今かいまかと待っている。
悟りたい、気付きたい、真実を知りたいといつか人はなるけれど、それはまだ自我の欲望の範囲で。
そうなれば、「いま」から逃れられるだろうという見えない自我のハタラキががっちり組み込まれてる。
でも入り口はそれでも何でもよくて。
どんなルートを辿ろうとも、どんなタイミングであろうとも、最終的に辿り着く先は同じだから。
「経験」を味わうこの色の世界で、人の数だけそのルートがあり、同じであることはあり得ない。
誰かと比べても仕方ないし、「こんな経験をしました」はその人の世界にとっての経験であって、同じことが他の人に起こるとは限らない。
だからそれが未だ経験してないからと言って嘆く必要も焦る必要もないし、そんな思いが湧くのであれば、「なぜ自分はそう感じるのか」に意識を向けた方が早い。
沢山の人が気付き始めてそれぞれの位置での発信をし始めてるから、混乱も起きてくるのかなと思う。
その混乱に巻き込まれて右往左往するのも、その人にとって必要であれば起こるだろうし、そうでなければ起こらない。
おそらくどんな場合でも「迷いの世界」は一旦通ることにはなるだろうし、それすら「経験」のひとつであり。
願わくば、その「迷いの世界」は外側にしかないんだということに気付いて、心の奥底に眠っているものを思い出しとっとと抜け出せるといいなーと。もちろん自分も含めて。
何回も取っ捕まって、また戻って。
その繰り返し。
繰り返すけど、だんだんゆるやかになってくるし楽に抜けられるようになってくる。
それも経験だし、起きるかもしれないし起きないかもしれない。
その人というかその魂というかその個性というか、そんなものが進化するために必要な事は日々常に起きていて、何なら必要な事しか起きていないとも言えるかもしれません。
必要なものは現れて、お役目が終われば消えていきます。それは人であろうと物であろうと出来事であろうと同じです。
先日も、初めて出会った人が、10日間ほど現れて消えていきました(笑)。
思いもよらない方法で突然現れ、ものすごい勢いでやりとりをしてましたが、その中で浮き上がってきた今までにない違和感らを自分の中で消化したら、消化し終えたと同時に自然な形で去っていきました。
私がしていたことと言えば、突然訪れたそれを迎え入れ正面から対峙し、それにより浮き上がった新たな自分の不要物を確認し手放しただけです。
ガイドに尋ねれば「お互いの学びが終わったから」だそうで。
こんな短い期間でしかもあり得ない設定であるんかいっ!と思いましたが、それだけ変化スピードが速いようです。
逆に、過去でもう終わったと思っていたものが、今だからこその学びが必要でまた現れ訪れることもあります。
今のこの時期は、そちらの方が多いのかもしれません。
今の事であろうと、何時のことであろうと、その人にとって必要であれば出来事は起こり、訪れます。
その順番タイミングはまさに完璧です。
どこまでその大いなる流れの采配を信頼しきれるか。
常に自我は動きはためきます。
特にそれが「嬉しいこと」であれば、姿形を変えて「本当のこと」のように振る舞います。
嬉しい出来事であろうと、よろしくない出来事であろうと、起きてる出来事は中立中庸なのですが、嬉しい出来事であれば人は緩むので、そこで浮き上がる「違和感」を見逃そうとしたりします。
こんな嬉しいことなのだから、もしかして自分が間違っているんじゃないのかしら? と思わせます。
今はなんだか「嬉しい楽しいことで自分を保とう!」みたいなものもあるようで? これまたなんだかなーと感じますが、ポジティブと呼ばれるものであろうとネガティブと呼ばれるものであろうと、真ん中から振られてるという点では同じです。中心からズレてます。
それらはその経験を味わうもので、いつまでもそれを保っていようとするのは、またそれを掴むことになります。
まーそれはそれでいいのですが。
でもまた疲れちゃうでしょ?
これからますます混乱や迷いの世界が突然訪れるかもしれません。
でもそんな時も、自分の真ん中、自分の中心、自分の本質的な所は穏やかで安らかです。
そこで休み、ガイドのコエに耳を傾ければ、その時の最善を導いてくれます。
答えは外側にはありません。内側です。
あらゆる外側の現象は、自分のその時の内側を観るための役目でしかありません。
どれだけ自我と距離を置けるか。
どれだけガイドのコエを信頼できるか。
どれだけ自分の真ん中へ戻れるか。
どんな時でも、どんな自分でも、どんな状態でも、ガイドやサポート達はあたたかく見守ってくれていて、いつもいつも繋がってくれています。
下町風情にあたたかさを感じるとき
その あたたかさ とは
その人個人というものではなく
人の奥底に流れている
共通の共有のあたたかさ
本質の部分を感じます
そういった観点から
この色の世界を遊ぶとき
あらゆるところに
ヒカリがあふれています
この身体の目では
見えないかもしれません
でも
隠そうとしても
隠せるものではないので
目で見えなくても
みることはできるのです
みようとしなくても
そのヒカリは
みえてしまうのです
そしてホントは
誰でもそれを
みているのです
すべては
変化し
移ろい流れていきます
流れてさえも
いないのかもしれません
いま が
毎瞬
現れ
消えていきます