見えないコトバ
大地と緑のパワーがすごい
よりきめ細かく
より優しく
より強く
大地のエネルギーを
あますことなく取り入れて
自らを通して
ぐぅーんと放つ
緑たち
もう そばに居るだけで
エネルギーチャージされてしまう
水音に耳をすませば
流れの音とともに
身体のナニカも
流されていく
風に身をまかせれば
身体じゅうを
笑いながら通り抜けてくれる
太陽はすべてに
ふりそそぎ
いかなるところも
透かしてくれる
お散歩をするとき面白いなぁと思うのは、その日その時によってひかれるものが違うのです。
雲だったり光だったり空全体だったり大地だったりそれぞれのコラボだったり。
それぞれを追ってフォーカスするのも楽しいのですが、いちばんリラックス出来るのは、なんにも追わず、なんにも見ようとせず、その場で自然たちの中に溶け込むかのように、ただボーッとする。
人の声というのはどうしてもちょっとチガウので、本当にリラックスしたい時は、葉っぱや風の音しかしない所とか、水音の強い所とかに行き、自然の音しかしない空間で僅かな時間でもいいから過ごします。
都内でも探そうと思えば結構あるものです。
小さな公園でも、早朝に行けばまた別世界です。
出来ればなるべく人の手が加えられてない所が好きなので、植物園など行っても原生林や大きな樹がある方へ自然と足が向くようです。
その場の観光的なものとか建物とかそういったものを目指して行くのもいいですが、その場自体がもっているもの、そんなものを直感でかぎ分けながら、その時の自分に合った場へ、知らずに出向いているのかも知れません。
自分であれこれ計画たてなくても、その時の自分がいちばんヨキように、ちゃんとなっているのだなぁと。
よく分からないけど、何となく行きたくなったからそこへ行く。何となく会いたくなったからその人と会う。
よく分からないけど。
綿密な計画なんて立ててないけど。
理由聞かれても困るけど。
やったからどーこーなるって訳でもないけど。
でも、何かそうしたいから、そうする。
それでいいんじゃないのかなと感じます。
そもそもトイレ行きたくなるのだって計画立ててしてるわけでもないのだし、眠くなるのだって理屈があってのものじゃーない。
本当はお腹が空いたら食べればいいのだけれど、学校やら会社やら仕組みの中だと「食べる時間だから」となってしまい、いつの間にか本来の身体の声も聴こえなくなってしまう。
そして「12時だから」何か食べなきゃいけないと、いつのまにか思い込んでる。
そんな "いつの間にかの当たり前" にひとつひとつ気が付いていって、「そうでなくてもいいんだ」と取っ払っていく。そんなものが、急速に進んで行くように感じます。
個々のものもありますが、社会的なものは「気が付いたら(物心ついた頃には)世の中がそうだった」な訳ですから、「これもか!」とビックリが沢山かもしれません。
でもそのうち楽しくなって、「あら~こんなものまで!」と見つける度に嬉しくなってポイポイし、また緩んで来るほど見つけやすくなり、「そんなものに縛られる必要はないんだなー」とお気楽さんになっていくのでしょう。
自分を縛っているのは
自分でしかなく、
自分を縛れるのも
自分でしかありません。
この世の中、見える世界はパラドックスでみちています。
でもその人の世界は、その人にちゃんとほどけるようになっています。
ほどき方は人によって違います。
だから、自分でほどくしかないんです。
でも、ほどけるんです。必ず。
だから生きてるんです。
そしてそれは
目に見える外側の世界にはありません。
自分の内側に観る方向を変えれば
観えてくるんです。
本気で「観たい」と
覚悟を決めれば
本質のジブンが助けてくれるんです。
「自分が」ひとりで頑張ろうとしなくても
大丈夫なんです。
外側の
「世間のなかの自分」で在りたいのか
「ジブンのセカイ」が映し出す
外側として自分が在るのか
この世界は 言葉の世界 です
自分 というものを形つくっているのも
言葉の世界です
そして言葉は
見えないもの です
イメージの世界です
常に創造を繰り返している世界です
その
創造性の源が
エゴという自分からなのか
本質のジブンからなのか
コロンとひっくり返り
創造性を楽しむ時が
やってきてます
言葉の世界ならば
優しく美しいセカイを
創り出し
生き生きと
いのちがめぐるのを観たいと
そう おもいます
言葉の世界を離れたとき
優しくても優しくなくても
美しくても美しくなくても
どちらもあってよく
どちらもじぶんのセカイにあります
どちらもあるから
どちらでもいいと
そう 感じます
それでも
どの現れも
美しいのです
自然が
ありのままであるように