なるべくして向かい
人は誰でも自分というものに向き合うタイミングが訪れると思います。
向き合わざるをおえない状況に置かれたり、何となくよくは分からないけれどずっとどこかでモヤモヤしたものを感じていて、それが何なのか知りたくなったり。
それは人により様々で訪れるタイミングもそれぞれで、それがものすごく重く感じる人もあるでしょうし、軽ーくやり過ごせて後になってあれがそうだったのかもと思うような人もいるのかもしれません。
自分に向き合う。
大抵の場合、それは怖いと感じるのかと思います。自分の見たくない部分、見なかった事にしていた所、ハッキリは分からないけれどジブンの中にある重い感じのもの、そんなものらに目を向けなければならないから。
どれだけ避けても、どれだけ先伸ばしにしようとしても、然るべきタイミングでその人にとって必要な状況で訪れます。
それは何となく状況が上手くいかなくなったり、場合により衝撃的な出来事が起こったり、体調が悪くなったり。
何かがおかしいと感じ、周りに解決を探すけれども見つからず、そこで初めて自分というものへ目を向けるようになれるのかもしれません。
自分にとってはあまりヨロシクナイ状況なので好ましく思わないかもしれませんが、長い目で観るとその人にとっては変化のタイミングであり、それはギフトではないかと思うのです。
本人にとって到底そうは思えなくても。
知らずに身につけた習慣や思い込みらの観念によって自分が気が付かないレベルで何かしらの強い思考の癖を持ってたりします。
または幼少期などの出来事で自分を守るために身につけた思い癖など、これも人により様々ですが、多いのは家族肉親等に関わることだったりもします。
自分を守るために身につけた思い癖なので、そこを観るのが怖いのです。観て失くす事が怖いのです。なので、自我は思いっきり抵抗します。そこを観ないように、そこに触れないように「もっといいのがあるよ」と色んな代替え案を差し出します。「ほら、それはあの人のせいじゃないか」「こっちの事だと上手くいくよ」。自我思考の渦に巻き込まれ、何とかそこを通らずにすむよう模索しますが、いつかのタイミングでにっちもさっちもいかなくなり、四方八方塞がりとなり、強制終了となります。
自分のほうを観るしかなくなります。
人によりパターンが違うので何ともですが、その自分が怖くて見たくないものは、単なる思い癖なのです。そうしなければそれまでは生きてこれなかった、もしくは生きてこれないと思っていた「思い」なのです。
そして自分に向き合うタイミングが訪れた時は、それはもうその人にとって必要なくなっているものなのです。それがなくても充分生きていけるし、持っていることで本人の成長を妨げていたりするのです。
自然の流れから外れているよというサインなのです。
全体が軽くなってきていることで、その見えないようにしてたものが見えやすくなり、自分がそれを抱えている違和感にどーにも気持ち悪さを感じたりする人が増えています。本人は何だかよく分からないけれども、です。
その自分の中の違和感は、言い方を変えれば「本来のジブンと偽りの自分との違和感」とも言えるかもしれません。
偽りの自分と言っても本人知らずに身につけたものですから別にそれがワルイという訳ではありません。
でも、心のどこかで「これは何かチガウ」と気が付いているのです。本来のジブンの声を微かでもどこかで感じているのです。
自分と向き合うことは怖いと感じることかもしれません。
でも、本来のジブンに近づくチャンスでもあるのです。そして、やってしまえば案外大したことなかったりするのです。だって、もうその思い癖に頼らなくても大丈夫だから来ているタイミングなのですから。
自分と向き合うことが出来て、外側に答えはないと少しずつ解ってきます。
外側に答えを求めず、自分の内側に目を向けられるようになります。
本来のジブンというものを信じられるようになり、それが少しずつ深まっていきます。
自分と向き合うことは、自分のあら探しをすることではありません。無理やり何かあるのではないかと見つけに行くものでもありません。
敢えて自分を深掘りする必要もありません。それはわざわざ思考の渦に巻き込まれに行くようなものです。そんなのは要りません。
タイミングが訪れたとき、自然とそういった流れになっています。
そうであるならば、「自分の中にどんな思いがあったんだろう」とその時浮かんでくるものを観ればいいのです。ただ観て、観察すればいいのです。観察して、やがて消えていくその思い癖を観ればいいのです。
その思い癖が出てきて「こんなものが自分の中に」と責める必要も嫌悪する必要もないのです。それが今まで自分を守ってきてくれてたのですから。
「もう要らないね。ありがとさーん」で消えて行くのを見送ればいいのです。
一度自分と向き合ってしまえば、その後そういったタイミングがまた訪れても、さほど怖さを感じなくなります。恐れるものではないと分かっているから。
今の自分には必要ない重しをドンドン外していくことで、より軽く生きやすくなっていきます。
もう世界が、全体が変わって来ています。
古い囲いや重しを持ったままではクルシクなってきます。それが明らかになってきます。
自分の内側に目を向け、要らないものはサヨナラし自分を整えることで、自分の中で何かが変わってきます。たいそうなことではないです。
もう、そういう流れになっています。
滞りを感じたならば、流れを遮っているものをちょいとどかしてあげればいいだけです。
大丈夫です。
「思い」は持って固めるものではありません。
その時その時湧いては消えていくものです。
「この思いを持ち続けなければ自分は大変なことになる。自分でなくなってしまう」
そんなことはありません。
「思い」はあなたではありません。
あなたでないものを持ち運ぼうと頑張るからクルシクなるのです。重いのです。
そして
「自分ではなくなってしまう」と言っているその「自分」は自我であり、本来のあなたではありません。
「自分ではなくなってしまう」と思った時点で、それは"思考"です。思ったのですから。
本来のジブンは心地よさであり安心感であり、「こうなってしまう」というような「思考」ではありません。
それはあなたではありません。
装っていた自分、偽りの自分、それらを持ち続けて行くのがキツくなるのがこれからの流れです。
それらが無いほうが生きやすくなる流れです。
本来のジブンがどんどん広がり、心地よさや安らぎが広がることで「これでいいんだ」と確信が増え、自我も落ち着いていきます。
そして
「自分」だと思っていたものは
勘違いだったという気付きが訪れます。
本来のジブンへ
ジブンの中にしかない
安らかさのなかへ