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いちばんのタイセツ

覚悟 が
音もなく忍び寄る


コイツがやってくる時は、すぅーんとワタシが静かになる。ああ来たな、と感じる。

余計な思考も湧かず、外の音は聞こえてくるけど自分の内側はシーンと静かで澄みきる。見えてる世界は変わらないけれど、どこか果てない所にポーンと飛ばされる。自分の中が空っぽのように感じる。

今までどれだけ訪れただろう。
現実世界でもみくちゃになっていようとも、心静かになっていようとも、そのタイミングが来た時には、前ぶれなくいきなりヒョッコリ現れる。

そしてその瞬間、瞬間でジブンの覚悟が落ち着く。
あーしたらいい、こーしたらいいとかそんなものは一切湧かない。ただ単にその時ジブンが覚悟すべきことだけが、ストンと落ち着く。理屈とかそんなものではなく、単にそれがわかる。

覚悟が落ち着いた後もそれにまつわる色んな思考や感情は湧いてくるけれども、それまで振り回されたような揺れにはならず、迷いは起きない。遠くの灯台の灯りがポツンとみえて、たとえ周りが真っ暗闇でも安心が広がっている感じ。その時明るさの中にいるのならば、更に明るさが増す感じ。

ああそれでいいんだなと、確信が深まる。


たぶん覚悟が訪れる前には、一度は自分の内側に眼を向けなければならないのかなと思う。なんとなくーでやり過ごしてくると、なんとなくーのままボヤけたまま過ぎ去ってしまう。

自分の内側に眼を向けた時には、場合によりみたくないものを真正面からみなきゃいけない時もあるけど、そこをみなかったことにしたり避けて脇道入っても、結局ジブンが心地よくなかったりするから、ちゃんと向き合わなきゃいけないことはそうなってるんだろうと思う。

そこを避けずに通ることで、また観えてくるものがある。そこじゃないと、観えてこないものもある。

真正面から向き合うかどうかは人それぞれの好みだから、向き合わなかったからバッドエンドが待ってるなんてこともない。そもそもバッドエンドなんてない。


向き合うと言っても、昔の修行僧のように荒行する必要なんてまったくなくて。
観て、認めればいい。受け入れる。
それも自分だったと受け入れる。

ほんの数秒で済むことなんだけど、人は自分のみたくないものは無意識に避けようとするから、そのまま思考や自我の囁きに乗って、別のあらぬものにすり替えようとしちゃう。これも殆どが無意識に習慣化されている。

どうするのがいいとかワルイとかはないし向かってる先は皆同じだけれども、ちょっと遠回りがその時の好みなのか、ズンズンと闊歩かっぽするのがその時の好みなのかの違いなんじゃないのかしら。

どれでも、何でも、大丈夫。
間違いなんて、ない。
"間違い"を創っているのは、自分の頭の中だけ。


でもね、その時その瞬間のジブンがいちばん望んでることは何なのか、何がいちばん心地よく感じるのか、そこを真正面から観てあげないことは、ジブンを大切にしてあげないことになるんじゃないのかなと感じる。
ジブンを大切にしてあげられなくて、周りを大切にすることなんてできない。どこかに犠牲的な思いが残ってしまうから。自分を差し置いて人のために尽くすというのはそれはそれで美しく聞こえるけれど、ジブンを充たしてなければどこかで歪みが現れる。そしてそれは怒りや憎しみというものに形を変える。

ジブンが充ちれば、自然とそれが溢れ出す。その充ちたジブンの心地よさは、知らずとも周りを心地よくさせ、直接的ではなくても周りを大切にすることになる。

先ずは、ジブン。
ジブンの本当の気持ち。心地よさ。


流れに乗るというのは、ふわふわプカプカ浮いて流されてればいいということではなくて。
その時その瞬間、流れで目の前に現れたことを粛々とやる。
それがお掃除ならばそれをやればいいし、それが覚悟ならば向き合えばいい。
訪れるものであり、現れるもの。


何かたいそうな壁らしきものがデーンと目の前に現れたとき、ものすごく大変な出来事で、ものすごく究極的なことのように感じるかもしれないけれど。
でも、たぶん今までも形は違えど何回となく現れ訪れているのだろうと思う。そして、ちゃんとどうにかなってる。

何かが起きるとキューンとそちらへ引っ張られてしまうけれど、先ずはひと息ついて。

そして、ジブンをたいせつに。


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kitoma
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