誤魔化しようがなく 誤魔化す必要もなく
連休中日は街が静かだった
人出が思ったより少ないのもあったけど
路地裏に入ると人の気配も生活の気配も薄く
空気がシンとしていた
それらを 外側ではなく
内側の芯なる部分の近いところで感じたので
ああ
いつもは雑音に紛れて気付かなかったけれど
こんな感じで 外側と区別しているところを
内側でキャッチしていたのか と知った
常にキャッチはしてるのだけれど
普段生活しているような
外側に意識が引っ張られてる時は
内側でキャッチしているものに気付くには
そこに意識を向けないと気が付きにくい
日常の流れの中で
どんな感じで自分がキャッチしているのか
その感覚をちょっと知っていれば
意識が向いてなくてもその感覚で
何となく その時のそれが何なのか
分かるようになる
そしてそれは
自分が外側としてるものと
内側としてるものとの境界みたいなものを
見つけやすくなるのと同時に
そのボーダーを緩ます時にもヒントになる
家から少し歩く距離の所に
元気なお野菜置いている八百屋さんがあって
無農薬や自然農や
それに近い栽培の物を取り扱っていて
なもんだからちょっとお高くて
普段使いにはちょっと無理なんだけど
そこのお店がお盆休み前の売り尽くしセールをやっていたので
やっほ~と出掛けて行って
リーフ野菜のミックスを買って来た
以前この店で路地物のルッコラを買った時に
いつも食べているルッコラとは
全くのベツモノだったのに
とても驚いたのだけど
今回の野菜も地もの(水耕栽培ではない)で
ひとつひとつのお野菜が
ギューッと濃ゆい感じがして
お家帰って早速サラダにする時に
その元気の良さに ふふふ と嬉しくなる
こういうものは
私にとってはご褒美で
お野菜から元気パワーをいっぱい貰って
ご機嫌さんになる
これから益々
こういった見えない違いというものが
明らかになっていって
それがどういう事かってことも
感じる人が増えて行くんだろうなー
今は表記などで色々隠せる部分もあるから
見たり触ったりすることで
自分が直接感じられるという事を
どんどん澄ましていけば
その時の自分に合う合わないが
分かり易くていいと思うんだけどなあ
そういうのが当たり前の世界になれば
誤魔化しようがないから
そういったのも減るだろうし
陰を見せないようにするのではなく
オープンにしたうえで
それぞれの特徴の違いで
選べるようになればいいのになあー
何か普段コトではない事が起きた時に
少しでも真ん中で在れるように
ブレても直ぐに戻れるように
真ん中の静けさを拡げたいな
不安やオソレから何かをするのではなく
同じことをやるにしても
安らぎやあったかさ という角度から
動くことは出来るのだから
そしてその
安らぎやあったかさ は
自分のウチガワ 真ん中にあるのだから
そこにいつでも戻れるように
不安やオソレから動くと
不安やオソレを放つことになるけれど
安らぎやあったかさから動けば
安らぎやあったかさを放つことが出来る
それは
全く同じ動きだったとしても
放たれているものは
まったく異なるものとなっている
どれだけ見せかけが良く見えても
どれだけ耳触りが良く聞こえても
それは誤魔化せるものではなくて
理由理屈なく
わかってしまう ものだから
誰かに 分かってしまう のではなくて
もちろん誰かにも分かってしまうけれど
何よりも
じぶんに 分かってしまう ものだから
何に誤魔化せないかって
じぶんに誤魔化せないものだから
自分がじぶんに誤魔化しているって
どこかで 分かってしまうものだから
そしてそれが
おそらく一番の
違和感だから
もう誤魔化しも
その違和感も
いらないセカイ