日常のどのパーツでも
とにかく眠く、ひたすら眠い。
それでも何故かお料理モードだけは入っていて、頭ではメンドクサイナーと思っているのに、ひと休みすると夕飯と明日のお弁当を作っている自分がいるので笑ってしまいます。
どうやら今の私にとって料理というのは「創り出すもの」になっているようで、料理をすることで何かしらの自分の中が整えられ落ち着いているようです。
材料を洗う。切る。茹でる。炒める。味付けする。同時に片付ける。
その間あまり余計なことは考えず、淡々と作業をしてます。分量も適当でその時の気分です。
食材を洗ってるときの手の感触。
パリパリしてるとかツルツルしてるとか、ちょっと柔らかいなとか。
包丁は力を入れないほうがスッと切れると分かり、何か今日は切りにくいなと感じたら、自分の身体に力が入ってたりしてるのに気付きます。もちろん南瓜とか固いものは力が要りますが、そういった事ではなく、包丁の動きに任すというか「切ろう」としないというか。
茹でたり蒸かしたりしている時は、その香りの変化が茹で上がりや丁度よい蒸し上がりを食材が教えてくれますし、香りの他にも色の変化、炒めているなら音の変化などが「丁度いい塩梅」を知らせてくれます。
それら食材が教え知らせてくれるものを見逃さないように、何となく力は抜きながらもその瞬間の五感をフルに感じています。
こうやってみると、料理というものをしているのですが、道具と対話し、食材と対話し、その時の流れを自分の思いで遮らぬよう頭の中の言葉はそのまま放っておいて、淡々と作業をしながら身体の動きのままに任せ動く、というような事をやっているのが愉しいようです。
同時に、食材らが姿かたちを変えていく面白さ。火を通すことで色鮮やかになり、通しすぎるとくすんだ色になり、固かったものが柔らかくなり、甘味やとろみが増したり、焼きすぎると焦げるわけで。
当たり前の事なのですが、目の前でそれらが変化していく様は毎回同じようでいて違うので、見ていて飽きないのです。
卵焼きが、巻くほどにぷくぷくと膨れ上がってきて最後は1つのかたまりとなり、だけれども切ればその断面は層が出来ていて白身の模様もあったり、その美しさ。別に自分が作ったものが美しいというのではなく、あの液体だったものが数回くるくると巻くだけでその模様がいつの間にか出来ているという美しさ。
食べるために料理をしていますが、私にとっては食べるためのイチ作業ではなく、料理をしている中での食材やらの変化に驚き、楽しみ、その流れ自体が私を整えてくれているようです。
いい加減どこかで飽きるかと思いましたが一向にその気配はないので、いまの私には合っているリラックス方法なのでしょう。
面白いもんで、単なる家事も一つ一つに向き合ってやると、それ自体が私にとっては「観る」対象で、自分がやっているのですが動きのままに任せていると、ああしなきゃこうしなきゃと頭で考えてこなすより、終わってみれば初めには考えてもいなかった形でキレイに事が収まってたりします。
何処かへ行かなくても、お家の何気ない日常の中でも、そういった事は幾らでも出来るようです。
ひとりでやるそういった流れの作業に慣れてくると、誰かと一緒だったり、どこか出掛け先であったりしても、周りに振り回されることなく、わりと自然にジブンの中心に戻れるようです。それはジブンが楽です。
頭では「明日はどこかでテイクアウトしようよー」と騒いでますが、よほどのお疲れモードでないとき以外は、「そーねー、美味しいもん食べるのもいいかもねー」と頭の言葉に返事しつつ野菜を切り始めるという、訳の分からぬ遊びです。
頭が「明日はお弁当持って行く」と決めても、なーんか身体(気持ち)が気乗りしない時もあり、その時は翌日「持ってこなくてよかったなー」という事に大抵なるので、そういうもんなんだなと、いつもやっているからとかいう頭の声やらはそのままにしておいて、その時のジブンに素直になっているのがイチバンのようです。
目の前の日常の、小さな小さな当たり前の日常は、結構愉快な出来事だったりします。
そういったのに出会わすたびに、なんだかホントにおもろいなーと感じます。
あたりまえ なんて
ない世界です。