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理解とともに訪れ深めていく

”理解”が訪れている

以前見聞きして知ったり
分かったと思っていた事らが
再び目の前に同じように現れて
それらに触れることで
以前は無かった 理解 が
形を変えて訪れてくれて
そこからまた 違う 理解 へと
路を繋げてくれようとしている

あれ? あの時はまだ種だったのか

どうやらあの時から今までという間に
水やら太陽やら養分が与えられて
いま 芽吹いたみたい

あの時既に発芽したのだと
思っていたのにね 違ったね
知りたがり屋 さんが発動してたんだね



自分の中の様々な変化変容は
思いつかないルートや座から起きて
それに触れたとき
え? そこ? それ? そうなるの?
と自分があたふたするのが面白い

え? そこがここと繋がるの?
え? それってそうだったの? と
表面上まったく関連無かったコトどうしが
考えられない状況で関連あったり

それはまるで
思考パターンを崩すためかのように
思考をワタワタさせていて可笑しい



その一方で
そういった出来事を通して
あ あの時私はホントはそう感じてたのか と
自分で気づいてなかった
思いや感情に気付いたりして
あの時は理解できなかった自分 が
今の自分 に理解されようとしてる

まるで他人事ひとごとのような感覚で
へぇーそうだったのか と
初めて知るかのように驚いてみたり

そうやって
今まで知らなかった自分 を知ることで
更に 理解 が深まる

自分への理解 でもあるのだけど
全体への理解 とも言えて
仕組みやことわりへの理解 とも言える



さまざまがふりそそいでいて
それを
おそれやふあんのひとつとしてとらえるか
なんらかのきっかけとしてうけとるか
どちらでもどんなでもよくて
どうあってもよくて

しこうはいくらでもはたらいて
ストーリーはいくつでもできるから
そのときのわたしが
たのしめるものをてんかいさせればいい

そのときそうだとおもっていても
じつはあとでちがっていたり
ひっくりかえったりするのだから
せいかいるーとをえらばなきゃたいへんと
がんばったところで
えごじがしこうのあそびのなかだから
それにきづいたとき
ああよかったんだと ちゃんとなる

そのときは それが せいかい



あらゆる全てが
常に変わっているのだから
自分だけが変わらないなんて
そんなハズはない

むしろ 変わらずにいようと頑張るほうが
変わる常に滞りとなるから
そのぶん反動が大きくなる



このままがいい と
流れの中で思うときもあるかもだけど

あとになってみれば
いつも
あれでよかったんだと思えるのだから



つまりはいつも
いまがいちばんいい


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kitoma
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。