なぜ人は物語を書くのかということ(作家の誇り)
これはもう人類に対する永遠の問いかけだと思う。答えはそのアプローチによって千差万別で例えば人類が書く事を始めたという歴史を遡ってその背景を考察したり、娯楽についての考察から導き出してみるのも有りだろう。
さて、唐突だが吉村昭という作家をご存知だろうか?知らない方の為にWikipediaを下記に貼っておくので参考までに
吉村昭を知っている前提で話すと、実は自分にとって印象深い作家で、彼の著作は学生時代に、ほぼ全て読破したのだが、熊嵐、戦艦武蔵、彰義隊と実在した事件や出来事を題材にした作品が多く、また、その題材の為に、精力的に現地に赴いて、当時の人から聞いた貴重な実体験を創作に盛り込んでいるため、構成に臨場感溢れており、思わず、寝食を忘れて夢中になってしまう程で、とにかく面白い。そんな吉村昭が↓のリンクにて、こんなことを述べている。
>>文学者は、肉体が消滅しても作品の遺る可能性がある
吉村昭は、身体が弱く、若い頃から大病を患ってきた。そんななかで、自身が死んでも書いた作品は、永遠に残り続ける。そんな作家という職業に、誇りと信念を持っていたのでしょう。
ここで話が変わるが、ドラゴンナイト4というゲームに、ロイドンというキャラクターがいる。
このゲームは、大学時代にプレイしたSLGで最も高難度だった作品で、その中でロイドンは主人公のこれまでの話を書き留める事でセーブをしてくれる重要な役割を担っている。このロイドンは戦闘に参加することも出来るが死なせてしまうと生き返らないどころか以降はセーブする事ができなくなってしまう。見た目は地味ながらプレイヤーにとっては必要不可欠なキャラクターなのだ。
そんなロイドンが作中で「僕は弱いし、戦闘の役にも立たないけど、僕の書いた物はたとえ僕が死んでも100年先、200年先まで残るんだ」と小説家としての誇りを語っているがこれは前述の吉村昭の言葉と重ならものがあって個人的に興味深いものがあった。
まぁ、流石に硬派な小説を書いてる人とゲームの登場人物を引き合わせるのは飛躍しすぎだが、この二人の発言に自分は真理を感じた。それと同時に流石にそこまで大したものは書けないが自分も10年先、20年先になって自分で振り返って「ああ、この頃の自分はこんな事を考えていたんだな」としみじみと懐かしむようなものを書いていきたい。