利己的と利他的における、その絶望的な溝とすり合わせについて。
人と人とは分かり合えないと思う。シリーズ化しつつある。noteをしていて感じたタイトルの件について書きます。先に結論を書いておくと、
利己的と利他的で溝がある。という漠然とした認識から
利己的と利他的はグラデーションで、各段階においても溝がある。ほとんど誰とも交われないのではと思ったという話です。
利己的、利他的とは
利己的
自分の利の為に動く。自分の利の為には他人や他をおしのける。
利他的
他人や他の利の為に動く。自らの利では動かない。
例えば小学校の休み時間。ボールが1個しかなくて取り合い気味になっているとする。利己的な人は、一番のりして奪おうとか、先にボールを隠しておこうとか。高学年優先とかの雰囲気を作ったりとかする。一方、利他的な人は、みんなが上手くいくにはどうしようとか考えるわけだ。とりあえずみんなの意見を聞こう、話し合おうとか言っている内に、利己的な人に奪われて、なんの力も結果もでずに終わることが多いだろう。
利己的が嫌い。利己的の誤り
私は利他的な方であるし、利己的が誤りでキライだと思っている。
さて、先の例ではボールだったが、これが地球だとしたらどうなるだろう。つまり、限られた資源下において自分さえ良ければいいを貫けば、様々な方法で争いが起きて、その争う方法に強いものだけ(体が大きいとか、早いとか、先に生まれた、持っている持っていない)が生き残る。その過程で熾烈になっていく争いで多くの犠牲もでる。もし資源が少なくなってきたら、なおさら争いは激化する。資源がなくなるその時まで争い続ける。不毛だ。
それは理性なんて関係ない弱肉強食の動物の世界だ。知性があっても一緒な結末だ。馬鹿馬鹿しい。その道を進めば終わりが見えているのだから、最初からその道を進まないようにするのが理性的で理想的で当たり前のように感じるのだが、世の中の人はそうでもない。
・資源云々を感じにくい程、便利で満たされている社会に生きているか。資源云々を痛い程感じるからこそ、きれいごと言ってられない奪い合いに身を投じている社会か。
・資源云々がなくなるという実感と、人間の生命時間がかけ離れていて、今が良ければ別にいいから、上の理屈を無視しているのか。
・すべてわかっている上で利己的に振る舞った方がトータル得だから、あるいは、そのときの損得で利己的利他的をかなり使い分けたりして、自分の人生のプラスを多くすることに執心してるか。
上を抽象的にまとめるなら、心理的なバイアスを含めて、認知に誤りがあるか。そういう複雑さを無視して、刹那主義、快楽主義的にいきることを肯定しているか。それとも、ただただ実利、現実的に最適な答えをその時選ぶリアリストとして振る舞っているのか。そのいずれもかもしれないし、どれかかもしれない。
利己的である方がすぐ得する
利他的であることに、正直メリットはほとんどない。利己的に負けるからだ。プラスは少ないし、結果が伴わないからだ。
利他的であることが評価される環境状況である、利他的な活動がまた自分にもかえってくる。利他的であることを自覚し、その道を進むことに自己肯定的に満足(汚く言えば自己満)しているのどれかしかない。利己的に動いた方が、手早くまた直接的に+が帰ってくる。
利己的であることはその利己的という分かりやすい報酬体系ゆえに強い力を持つ。頑張ったぶんだけご褒美があるなら、頑張る人、才能がある人が報われるし、その繰り返しで、どんどん前に進めるだろう。莫大なエネルギーを引き出せる。
一見正しく見えるが、その頑張りや行動のなかに、なにかを犠牲にした成果、誰かを押し退けた成果、声をあげないなにか(地球や底辺労働者)を無視して消費した成果が含まれるとすれば、それは悪だろう。
利己的なことは原子力のようなものに思う。容易に莫大なエネルギーを産み出せるが、反面、人間に管理できない。そして綻びや打撃を気づけば与えるわけだ。
だから私は利己的という人を押し退けたり、争うエネルギーを捨てて、皆の興味関心、純粋な知的好奇心というエネルギーで成り立つ人間の生活を望む。この辺はお金が腐るべきとか、世界から争いがなくなる日(書き途中)で詳しくは書いてある。
利己的利他的における、ヒューマンステージ問題
利他的であることを賛美してきたわけだが、今回の本題はここからだ。利己的や利他的とは無限の段階がある。段階がずれれば、共通の認識を持てず、相手を利己的とさえ見てしまうかもしれない。
究極の利己とは、私単体だろう。では、私と恋人がいるときに、レストランの順番待ちを早足で我先にと着くような場合は、恋人のことを想っていても、私と恋人を己に拡張拡大した利己的だろう、では、家族では? では、企業では? では、地域では? では、町、国…、地球では?宇宙では?
ある自分を含めた集合体を己とみて、一見利他的に振る舞っているようにみえるが実は中身は利己的の場合がある。そして己の拡張拡大の各段階がある。
はたまた、純粋な利他的といえども、国とか人類までは共通の認識を持ち得るかもしれないが・・・、利己的な人間は除くとか、人間以外の生き物は除くとか、宇宙人とか知的生命体を含めるとか、どこまでを利他の他に含めるかで、細かい違いが生まれる。そうすると人間の為にするべきこと!と宇宙人をも含めた生命体の為にするべきこと!は当然異なるように、同じ利他的同士でも意見や考えが交わることはない。
つまり、利己的利他的において、枠とその内や外が常に存在するために、無限に枠は拡大分割分類可能であり、他の枠にたいして利己的(利他が足りない)だと批難できてしまうのだ。
利己的と利他的の根幹、変化の可能性。
こうして掘り下げてみると、そもそも利己的、利他的であるという言葉選びは正しくない。私が正しい、こちらの方がよいという話の時に、どこまで含んだ枠なのか。に意識を集中させるとよい。
そして、わかり会えると思わない方がよい。伝わると思わない方がよい。極端かもしれないが、イルカや鯨も人間と同等に扱うべきという利他的な人と、人間とそれ以外の動物は別とする立場の人がわかり会えないように。一見利他的同士でも、絶望的な溝がある。そして、それは主義主張に強く関わってくるので、指摘したり、変化させることは厳しいと思う。
意見のすり合わせ的な記事で描いた通り、それでもすりあわせる必要があるなら、かなりの具体論におとしこんで、制限や資源や締め切りなど明確にした上で、6w3hを意識して話すしかない。出なければ話は平行線のままだろう。
利己的利他的とは、思考停止ワードだった。格好つけという不純が混じってしまった良くない言葉だ。そしてこれもかなり主義主張を含むので、そこに囚われている場合じゃない。
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