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ルールの必要性や存在価値、その効果や腐敗等にもついて

夫婦とルール、子供の教育にルール・・・、ルールについて考えることがあったので、ルールの必要性やルールとはなんぞやということを、自分の言葉で整理してみようと思う。


ルールとは、事故やトラブル(よくない結果)を未然に防ぐため、個人集団の行動を抑制禁止し、あるいは推奨強制することで、個人の安心安全を高め、信用を担保し社会活動取引を円滑化させるもの。


思いついた具体例を挙げるならば、

法定速度は60キロ。

公園内でボールは使用してはいけません。

泥棒や詐欺をすれば、罰があります。

制服の靴下や下着は白を着用すること。


速度が上がるほど、判断操作のミスが増えるので、これぐらいの速度でみんな走りましょう。(個人の安心安全、ひいては社会全体の安全)

公園内で互いに怪我をしないように、危険な遊び(ボールを使う)はやめましょう。(上記同様)

相手を信用する、警戒するに払うコスト(厳重で強固な家にしなくてもいいし、取引相手を調べまわさなくてもいい)が不要になり、その分を、他に回せる。(社会活動取引の増大)

学生の本分は勉強なのだから、着衣に気を払う時間をできるだけ減らして、勉強しなさい。(?)


定義の時点から、ルールの不完全さは自明だったが、一応、具体例も載せてみた。良くない結果というものに、価値観や善悪の価値判断を含めている時点ですでに不完全である。言い換えるなら、なにをもっていい悪いとするか。その人の理想状態に近づけるもの=ルールなのであり、理想状態はひとそれぞれなのだから、完全なルールはない


更に公園の例でいえば、理想をルールに落とし込む時点でも齟齬が生じている。公園利用者が互いに怪我をしないように、ボールを使ってはいけないとなる。たしかに、中学生が野球のキャッチボールをしてる近くでわが子を遊ばせたい人はいない。しかし、ボールを使うな!となれば、幼児用のふにゃふにゃボールもダメになるし、一方で、とても硬い10角形のどこにバウンドするかわからないものなら投げてもいいことになる。


こうなると次の手としては、公園内で飛翔する硬度○以上の物体は使用厳禁とでもルールを強化すればいいのだろうか。では?転がるボーリングの球なら使えるのか。



やめた。簡潔にいこう。

ルールは不完全である。

1、価値判断を含む理想状態が人それぞれだから。

2、理想を実際に規定し行動に落とし込む段階で、理想を達成する手段として目的に合致しなくなることがある。

3、個人の行動を禁止強制する中で、自由と快楽(自分の好きにしたい)が奪われ、その反動から一部の人がルールを破る、ルールを都合よく解釈するようになる。

4、3の影響で破られるルールを守らせるために、ルールは拡大、複雑化、厳罰化しようとする。そして当初の理想や目的からはますます乖離し、また複雑化した分厚いルールブックは見向きもされなくなる。(形骸化)

5、形骸化したルールでも、ルールはルールということで、人を禁止強制させる力を行使し優越感を感じる人に、悪用される。あるいは、不都合や問題責任が生じた時に、ルールを破っていた当該個人の弾劾訴追に利用される。あるいは、ルールは作ってあったという保身に利用される。(ルールの悪用)



別の視点で考えてみよう。完全なルールはない。しかし完全に限りなく近いルールとはあるのだろうか。

・その社会に帰属する人の90?%以上の人が賛同する。(ある程度は普遍的に良とされる価値観である)

・限りなくシンプルで、違反が明確なもの。あるいは、限りなく複雑で膨大だが、その判断解釈を代替し、違反の判定を瞬時に知らせてくれるもの。

・信賞必罰であること。


膨大な統計データと実際の各個人の行動状況と周囲の状況をあわせてみて、瞬時に判断し情報提供する人工知能モバイルができれば、ルール問題は解決し、そこに暮らす人々において限りなく完全に近いルールはできる。人工知能さまさまだ。


今は人がいないのでボール遊びOKです。また、付近の道路や外部への影響を考えて、あなたのもっているそれなら、フェンスで止まるので問題ありません。おっと人が来ました。イエロー信号。10m以上の間隔をあけてください。今後は投球動作を急停止する非常アラートの音量にご注意下さい。と、そんな風に骨伝道で頭に囁かれるのだ。


結局のところ、ルールは不完全だが、なくてはならないものである。というか集団や社会で動いていれば、自然発生的にその場でのルールが出来上がっていくものである。”皆が快適に暮らすために”という理想の為。技術的に可能になるまでは、形骸化したり悪用されてるところは、正していく。そしてなんとかさまになる形に整える。そんな程度のものだ。ルールとはそれだけだ。だから、ルール作りに腐心したり項目を説明することに躍起になるより、その理想理念を共有したり確認しあえように、理想状態について十分に話し合う機会や、考える機会を作る方がよいと思う。



次の話題に移ろう。教育とルールについて。

自分ルールとして自分の中で、目標を明確化しそれに近づく努力として役立つし、乱流とか小難しいこと考えなくても、テトラポット付近で遊ばないでくださいに従えば、安心安全を担保してくれる。ルールには助言、道しるべの効果がある。


しかし、Aをする。Aの状態を作る。Aをしてはいけない=Aでない状態を作るというシンプルならば、全く問題ないが、Aをしなさい。いずれそれはBになる。等、因果関係や事象が離れていたり、時間的な隔たりがある場合には、その効果はいかほどなのだろうか。賢い子になってほしいから、1日1冊本を読むルールは正しいのだろうか。


この問題を少し言い換えるならば、ルールがその人の習慣を作るのだろうか。その人の気質や性質を強化したり、補助したり、あるいは動機づけとして背中を押すのだろうかといえる。本を多く読む⇒賢い子の因果関係が仮に正だとしても、本を多く読ませるなんらかのルールで、子供は変わるのだろうか。(スポーツのために体を動かすルールと言い換えてもいい。)


実験結果があれば、望ましいがまぁそんなものは知らないので推論推察する。結論から言えば、対して効果はないと思う。ルールで人を自分の望む人間にはできない。


   本を読むのが好きな子  本を読むのが嫌いな子

素直     ○⇒○         ×⇒△

反発     ○⇒○         ×⇒×

隷属     ○⇒○         ×⇒○


子供の性質と、反応を簡略化すると上記のようになる。

素直:親の言うことをとりあえず素直に聞き従う。

反発:言われたことや強制には反発する。反体制的。天邪鬼。

隷属:命令に黙って従う。従順。抑圧的。非主体的。

素直な子や隷属的に子供等を従えるならば、上記の図のように本を読むようにはなるかもしれない。しかし、もともと嫌いならば、いずれ元の性質が顔を出し読まなくなるだろうし、隷属的な子はそれでも読んでくれるだろうが、抑圧的で非主体的な行動しか取れなくなるだろう。それは親が望んだ賢さではないと思う。


教育の為にルールを用いて、Aになることを期待して、Bをしなさい。という類は不毛であると思う。効果はない。むしろ、冒頭で述べた通り、ルールは不完全極まりなく、うまいルールを作ることよりも、理想理念を伝えて説明し、それを共有する方が望ましいと思う。そしてその話し合いの中で、理想理念も洗練され磨かれていくのだと思う。


反論の余地はある。外発的動機付けの内在化の可能性もあるし、本を好きか嫌いかの性質まで、強制や習慣づけることで変わるのかもしれない。ただ、私はそうは思わない。集団行動は昔から嫌いだ。スポーツや、芸能、仕事、様々な面でも結局、集団行動は嫌いなままで、今もそうだ。むしろ年を取るにつれて、個人行動で、かつ、丸々、かつ、丸々という自分になお合う条件が増えていくばかりである。


教育とルールについての推論推察は、不十分だがとりあえずこの辺で終わりとする。ルールでは教育できない。人の性質は変わらない(だろう)。無理して強制しても隷属タイプしかついてこない。隷属タイプでは非主体的となり、長い目で見れば良いのかわからない。


後半は根拠もへったくれもない一人語りのようだが、もう、そのまま行こう。つまり、教育には、自ら持つ理想理念を精錬精査したうえで、それを本人に伝えて、共有確認刷新を図る。さらには、理想に近づく手段に接する機会を与えることで、本人にとって、向いている向いていない、好き嫌いの経験を踏ませて、自分が本当に執着している個性を見つける手がかりとするのがいいように思う。教育にもルールはいらない。与えるのは理念と機会である。



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