家事育児仕事の分担による、夫婦トラブルケンカを完全解決案
試験投稿(ブログ記事の転用一部改変。)
子供が生まれて急に出てきた日々のストレスやひっかかりや、トラブル。ネットで色々見ていたけれどもどうにもしっくりこなかったので、1から解決法を考えてみました。この記事を機に、世の中の夫婦のトラブルケンカが減れば幸いです。結論はこれです。
家事育児の見える化、パートナー双方で家事育児をこなせる技量をもつ、ルールのいらない自主性と公平性と思いやりに満ちた家事育児運用。
双方どうしても苦手な家事育児、できない家事育児の絶対ラインはあります。しかし、ある程度の自主性をもって経験を積めば、そこそこの戦力にはなります。なので、その双方の絶対ラインを把握理解しつつ、あとのどちらでもできる家事育児の作業群は、気づいた方や時間や心に余裕がある方、思いやりがある方が、その作業にかかればいい。手伝うや分担するのではなく、仕事も家事も育児もすべてが二人の家のための作業群だと思うようにする。
少し視点を変えましょう。現状は1か2の家庭が多いと思います。
1、片方がスーパーマンやスーパーウーマンになって、仕事に家事に育児にとばりばりこなすことで家庭が回る。(相手側より負担負荷大で耐えている)
2、お互いにルールを決めて、家事育児を分担する。時々話し合い微調整。
1は言うまでもなく、我慢による解決でいつか爆発するか、その不満からパートナーへの愛情や信頼も損なわれてギスギスしてくるのが目に見えている。
2は一見合理的理性的解決にみえる。しかし、ルールというシステムの弊害をうまく二人が処理できるほど、合理的理性的な二人である必要がある。例えば、子供が熱を出した時に迎えに行く等の例外時の処理、例外時のルールが必要だし、ルールを破ったり守られないときのルールも必要になる。新しいタスクが増えるたびにルールは増えていく。どんどん複雑なルールになってしまう。そしてなにより、ルールで分担となると、自分は分担分をしっかりこなしているのに相手のクオリティが低い等と、分担によって分断されることで、双方の愛情や敬意思いやりが薄れ、ただの仕事のパートナー程度になっていくのが目に見えている。
自分で1の状態を経験してみて、またネット上の色んな愚痴をまとめてみて、思います。家事育児の負担負荷については次の二つの差し伸べられる手が欲しいんです。
・家事育児へのかかわりを感謝・認める・労ってほしい。逆に言えば、やって当たり前だと思われたくない。
・特に様々な事情で、普段より余裕がない時は、尚の事、家事育児の負担を減らす(手伝ってもらう)か、その余裕のない中でもやり遂げた自分を一層感謝・認める・労ってほしい。
2のルール化は、上述の通り手続き処理が煩雑になることによる弊害に加えて、分担することで、やって当たり前となり、そこに感謝や労いはなくなります。その分私だってしてるんだぞ!と思ってしまう。また分担による分断で、相手の領域に口や手を出すことが億劫になります。余裕のない時の手助けも期待できず、何とか頑張ってこなしても、最初から決まっていたことをやっただけ、当たり前に思われてしまいます。
特に昔ながらの男性脳の考えであれば、(男は仕事。家事育児は女の仕事という認識である場合、)仕事をして帰ってきて休み。家事育児はそっちの仕事なんだから、そっちがやってよ、やって当たり前となる。もうすこし今風でも、男は仕事、女は育休で育児。真ん中の家事はできるだけ手伝うよ。でも育児はそっちの仕事でしょと。やっぱり育児を分担させ分断させ当たり前になる。
というわけで最初の結論に戻ります。分担(ルール化)せずに 、お互いがすべての家事を認識して把握し、そして一通りできるようになる。そして余裕があり気づいた方が、その作業をするようにする。家事育児の見える化、パートナー双方で家事育児をこなせる技量をもつ、ルールのいらない自主性と公平性と思いやりに満ちた家事育児運用。
自主的に余裕があるときに作業をするのだから、やらされている感はない。そして、曖昧にもちつもたれつにしておくことで、やらなきゃかなーと思っていた際に、先に相手がその作業をしてくれたなら、負担軽減とその相手の貢献に感謝できる。そして自然と労う。もし疲れていて余裕がないならば、無理せず休めばいい。パートナーがその分を補ってくれる。これで、家事育児における心的ストレス、感謝されない、当たり前、無理してるのに褒めてももらえない。そういうもろもろがすべてなくなり、むしろそれらは相手への思いやりと敬意や愛を見せあえるチャンスにすらなれる。いいことづくめ。
ただ、この完全解決策は、公平性、自主性、思いやりという人格性質に頼ってしまうという致命的欠陥がある。考え方は理に適っていても、それを運用する資質が理想的すぎるのかもしれない。
・公平性
稼ぐお金の量で公平とみる人ならば、仕事家事育児の家事育児を全部妻がしてもバランスはとれると思い、やるやらない以前に、妻がして当たり前とみる。女性側もそういう公平性観で、同じ公平性観でバランスがとれるケースもある。しかし、それが時間の人もいれば、ストレス量の人もいる。育児が365日年中無休といって強く出る女性もいれば、キツイ仕事をしている自分を家ではもっと労えと思う旦那もいる。色んな公平性がある。
双方の公平性について認識のズレがあると、仕事家事育児をすべてが二人の作業だと認識を改めても、自分の方が頑張っている!!相手がそれをもっとするべきだと思いすぎて、形だけ見れば、仕事しかしようとしない男、育児しかしない女等々、両者の溝は深まる。
・自主性
仕事家事育児、全てが二人の作業であると思っても、やっぱり作業を自ら率先してする自主性が十分備わっているかも疑わしい。遊ぶ方が楽だし、多少さぼっていても、相手がそれを補ってくれていれば、仕事家事育児はまわっていく。そして手を抜くのが当たり前になってしまう。こうなると、冒頭の片方がスーパーマン、スーパーウーマン状態になってしまう。
・思いやり
自分と相手が6:4、7:3ぐらいの気持ちで、思いやりをもって相手の分まで補ってあげるぐらいの気持ちが丁度いい。実際にできる作業は目標よりは下回るものだし、それが相手に伝わる量は、もっと下回ることが目に見えているのだから。
もし公平性、自主性、思いやりがうまく互いに機能していないと、家が荒れていく。そして、結局その荒れた状態に我慢ならないほうが手を出し始めることになるが、公平性、自主性、思いやりの全てに欠ける相手の裏切り行為に、ほとほと嫌気がさしていずれおわる。愛情や信頼尊敬がない家庭内別居なのか。離婚なのか。ルールで強制的にさせる表面上でうわべだけの二人になるだろう。
逆に考えていくと、世の中に本当の意味でのパートナーはいるのだろうか。こんなところまで突き詰めて考えなくても、我慢や妥協や低負荷状態なら、表面化しない傷や地雷は二人の間に山ほどあるのかもしれない。というか、世の中は大概そんな曖昧なものなのだと思う。それでも完全に壊れたり、完全にずれていないし、まぁそこそこという関係性で世の中はまわっていくのだ。卵が先か鶏が先か。価値観や思想・考え方が似ていたから結婚までこぎつけ、そこそこ続いているのか。二人の衝突やケンカがいい方に転び続けることで、二人の価値観や思想・考え方がなれあいならされあっていくのか。
最後に、ルールはやはり好ましくないと思う。それは衝突を予防しあるいは、そのダメージを最小限にする力はあるかもしれない。でも、それは表面上を取り繕うもので、二人が真の意味でパートナーに近づけるものではないからである。本質的にがんばる方向性が違う。公平性と自主性と思いやりについて二人で話し合い価値観をすりあわせるべきあり、ルール上で二人が対等や平等になるかに腐心してケンカしあうより、よほど二人の絆を強くすると思う。(ただ、その話し合いで表面化されていない二人の絶対的な溝が明らかになると、臭いものには蓋をしておけばそれでよかったのに、臭いものを直視して、それゆえに離婚の方向へ向かうこともあるので、半同棲時期に済ませる方が望ましいのだが・・・)
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