3代目 へっぽこ社長(仮)の経営決断
半家族経営の弱小零細企業の社長になるかもしれない3代目へっぽこです。さて、今回は、それとなしに続いていた今が、色々と変革を迎えるようで、決断の時期にさしかかっています。それについて少し考えを整理するために書こうと思います。極個人的な共感できる人の少ない内輪話かもしれません。申し訳ありません。
先輩社員の退職希望
繁忙期、閑散期の波はあれど、まぁそこそこに仕事をして、そこそこにお金をもらって、そこそこに利益がでて会社が潤っている感じもしてと、まぁ潤沢や楽して儲けている感じでもないながら、そこそこ現状維持な状態だったと思います。二人の営業マン実務マン?と裏方事務の両親で回してました。
が、しかし先輩65歳社員(仰ぎ見る大先輩)の退職希望申告から、事態は一変しました。現状維持は遥か彼方となり。
1、新しい人を雇い、今と同じ形になるよう整える。
2、個人事業主というか1人親方実務マンとして、できることだけをする
3、もういっそのこと会社をたたんで、別のところで会社員として働く
とこんな岐路に立たされています。正直、行政書士とか司法書士が最近手掛けている事業継承業務とかそっち方面のプロ(経験者)の視点で色々聞いてみたいものです。
現状維持と、仕事の面倒の増加減少
この岐路に立った時の一番最初は、
・同じ形に整えること(頑張って新規採用して、現状維持にもってく)
・自分の仕事の面倒さの増加をどう管理するか
の2点から考え始めました。
取引先やお客さんのことを考えると、規模縮小して、仕事を断ったりして色々迷惑をかけるのは申し訳ないし。現状維持の感じで同じような勝手知る感じでいけば、またそこそこ順風満帆感で、いい感じなのではないかという淡い期待がありました。現状維持が好きなんでしょうね……。
次いで、しかしその流れでいくと、先輩社員が負担してくれていた分やらなにやらが、自分にのしかかり業務量が増加するという未来に嫌気もみえました。人を増やしたところで、経験豊富なものでしかできない作業や、信用やら重みの仕事は、自分にお鉢がまわぅてくる=今より面倒、大変になる。
ここのバランスや対処をどうするのかと考えました。すでに、家事、育児、仕事で自分の時間やリラックスのないいっぱいいっぱいなんですよね。もう増やしてほしくない……。
世の中には、危険や緊急性もないし、その場での機転もいらないし、結果への責任もいらないしなんていう職責の軽い仕事が溢れています。反対に、危険や緊急性と隣り合わせだったり。臨機応変が必須だったり。夜間やらなにやらでもかけつけないといけないだったり。職責の重い仕事も溢れています。
こういっちゃあれですが、アルバイトやパートはそういう意味で、本当に気が楽で羨ましい限りです。決まったことを決められた方法でやる。時々イレギュラーやクレームはあるかもしれないが、即日のことで尾を引かない。時間が解決してくれる。あるいは、飲食店や美容師や配送業、廃品回収業とかも同様に羨ましいです。まぁ不味かったり下手ならば、顧客(お客さん)が離れて、誰も来ないという死活問題はあるものの、決まったことをして、その日限りで終わり!尾を引かないという職責の軽い仕事は、非常に羨ましいです。
職責の重い、軽いであまり仕事を分類している話を聞きませんが、オフィスや業務用系(業務用機器や機械関連)の仕事。ライフラインに関わる仕事(電気ガス水道)。生命や健康に関わる仕事(医師や獣医や薬剤関連や美容やエステや警察官や消防救命とか)等、ないと困る、必須、それがダメだと色々回らなくなる!健康被害!みたいな分野に関わる仕事は、職責の重さで苦しむ気質の人もいるかもしれません。
仕事へのスタンスや価値観
一旦、現実や目の前のことから考えることをやめて、そもそも自分はどんな風に働きたいのか。どういう風に生きたいのかという自分の理想ありきで考えてみようと視点を改めました。
そもそもおかしな話と言うか、気を遣いすぎの話なんですよね。取引先やお客様の為に無理をする。自分の身を削る。これっていわば搾取というか、自分の人生を捧げて殉職するみたいなもんで。そういう生活や生き方が嫌いじゃないし、そうやって会社を大きくしたいとか。なにか+のビジョンがあり、それで幸福になれると思う人は、そういう会社と仕事の私みたいな人生を謳歌すればいいと思います。しかし、私はそうではありませんでした。
経営者として敏腕を奮って、人を集めたり、仕事を見つけ作り出して、楽して稼ぐ社長!みたいな道筋になんの興味もありません。社会をよくするために粉骨砕身します!自分の生き方ステキカッコイイみたいな美学や理念もありません。もっとうまく社会が回るには?とは考えますが、その主体や主役として自分がそこに座るイメージはありません。
うだうだ書いてしまいましたが、結局のところ何がいいたいかと言うと、家族経営ならぬ個人事業主(フリーランス)の、自分の裁量で働きつつも、仕事のない時は自由時間と一緒で、色々と家族や育児や自分の時間にも使える。そういう社長業の良い部分を利用して、そこそこの暮らしができればそれでいいという結論が浮かびました。
田舎の家族経営会社で、地域密着なのでぽつぽつ仕事はある。それで収支はまぁとんとんだし、持ち家ででていくものはない、しゃかりきで働いているわけではない。家族経営(個人事業主やフリーランス)なので、閑散期には、ジブンゴト(歯の治療や勉強やらなにやら自由時間)を持てる。だれも批難しない。ゆったり。みたいな働き方に憧れます。
究極的に言えば、仕事があまり好きではないのだと思います。私にとって仕事は作業の言い換えであり、歯磨きやお風呂掃除やら、日々のやるべきことの項目の1部にすぎず、自分の人生として省みた場合、お金を稼ぐ手段としてやるべきことの項目になっているだけで、仕事を通して、どうこうは一切ないのです。
多分、私のこの現状は、浅はかで色々間違えてきたツケなんでしょう。キャリア教育を改めて痛感させられます。優等生ヅラしてそこそこいい大学とそこそこのお勉強はしてきましたが、本当に自分と向き合い自分の人生と仕事を考えることは、Fラン大学レベルの低レベルだったと思い返します。
というかこれって、全労働者の夢
自分探し、自己分析みたいなのりで働き方の夢を描きましたが、これって実はまんま全労働者の夢ですよね。
・そこそこに働いて生活に困らない。
・仕事と家庭や私事のバランスを簡単に調整できる。
・他人に必要以上に叱責されたり強制されたりせずに、自分のペースで仕事ができる。
社畜ではない、フリーランスの利点みたいな話とも言えます。
しかし、そのままそれが欠点にもなりえます。そうしたわがまま(自分勝手自分都合)を通すには、それだけの実力が要ります。カリスマ美容師だから、お客を待たせられるし。凄腕シェフだから、何ヵ月でも先に予約が入るわけで。てきとーに自分勝手をしていたら、いずれ他のもっと条件の良い使い勝手の良い所に仕事をとられるわけです。
つまり、フリーランスや個人事業主的に働いたとして、わがままを通せる比較優位や理由探しを厳密にしていないとたちゆかなくなるということです。
後継者不足と地方の優位
自分の場合、地方都市のためにそもそも同業他社とか後継者の数(新規採用)が圧倒的に不足していることが比較優位だと思います。
やや特殊な業務であったり、その内容が少し大変なこともあるでしょう。いわば、猫の手でも借りたい状況なので、へっぽこでてきとーな実力でも戦力として多少はカウントして貰えてしまうわけです。多分。 なので、今よりもうちょっとぐらいはもっとフリーランス的に働いても許されそうな見通しはあります。
で、もしダメなら、雇われサラリーマンへと他社に就職でもいいのかなと思います。前述の通り、後継者不足気味な業種なので、自分の会社でなくてもどこかには採用される気がします。まぁその場合、社風に合うかの不安とか、自由な働き方への絶望となり、お金を稼ぐ手段としての1作業や項目として、辛く動くだけになります。
ようやくみえた結論と、財務状況や売上
問題や不安はあるにせよ、着地点が見えてきました。
裁量を大きく、そこそこ自由に働きたい
→ そのわがままを押し通すためのポジショニングをしっかりする
これが結論ですね。
つまり、今ある2人の円をいきなり1やそれ以下の円にすると、パワーや存在意義が弱まり、他に代替されやすくなります。1の円で一人自分勝手するまでの実力は私にはないわけです。なので、新しい人が入ってくれるかどうかは別にして、とりあえず新規採用をする。で、現状の2の円を1.5~7位の円には維持するように頑張る。
もし、新規の人が最高で2以上の円になるようならば、最善です。私の負担や危惧はなくなります。一方、私みたいにへっぽこで、1,5やそれぐらいの今より小さな円になるとしても、一人の1よりかは存在意義があがるので対外的な価値はあがるはずです。つまり、わがまま(自分勝手)を押し通す力としてみればいい方向の選択になります。
というわけで、一人雇いたい!新規採用!は確定として、あとはお金の面での運用問題と、人材選び問題の話ですね。自分的に都合の良いはたらき方をしたい!しかし、収支は-では継続持続はできませんから、お金面でのシビアなライン引きをして新しく雇うを考える必要があります。
現状の売り上げや給与や、今後の売り上げ減少やらその辺を見越したお金での経営の波を予測していく必要があります。ここはかなり具体的な話になるので割愛します。一方、人材選び視点の話は、へっぽこの視点の話ですが、ちょっと書いておきます。仕事における人選びとはまぁそんなに複雑ではない気がします。
人間の本質は、不安と欠乏感と期待であるという3大公理?を発見しましたので、それで判断すればいいだけの話なのかなと。つまり、
1、絶対無理!私はこんなのできない!ストレス!みたいなラインを超えないかどうかの不安要素をしっかり事前確認する。
2、仕事を通してこうなりたいとか、これが仕事にないと私は満足できないとか、私の人生の目標はこうかもしれないみたいな長期的な欠乏感(本当に欲しいものがあるか)に抵触しないか、チェックする。
3、仕事を通じて、得られる何か(給与やらなにやら)に満足できるのか?その状態で幸せだといえるのか。その状況の自分を肯定できるのか。自分は必要とされていると思える要素はなにかの確認。
最後は、相性ですね、行動傾向のすりあわせです。業務内容においてすばやくが正義の世界と、ゆっくりでもいいから正確さ正義の全然別の世界や基準が各仕事にはあります。今の仕事を俯瞰して基準を見直し、AとBのどちらを選ぶのが正解か?を判断する10個ぐらいの質問を用意して、その基準との合致度を判断すればいいと思います。
おわりに
色々この問題を考えてみて、この世界って、面倒をおしつけあっているだけの世界でしかないように思えて、すごく物哀しい気持ちになりました。
私のこれまでの着想云々も紐解けば、楽したい!(自分にとっての最善)を追求する。そのために他人を利用する。これだけの話でしかありません。世の中全部こんなもんな気がしました。卑近な例で言えば、家事なんかもそうです。気づいた人がする、まぁ仕方ないと思いながらもやってくれる人がいる。そういうちょい面倒の押し付けあいでしかない。
頑張ってくれる人と、面倒を押し付けて楽してふんぞり返る人がいる。究極的にはこれだけなんでしょう。で、頑張りに疲れたら頑張る側は辞めたがります。辞めようとします。一方、楽したい側は、その楽を追求するために、次の相手を探します。これだけです。
まぁ生物としては至極まっとうな正解の生き方です。無駄なコストを省き、一番効率よく獲物(得)をえる。言い換えれば自分の為に利用できるものはすべてうまく利用するという生物的には大正解の生き方です。
しかし、根本的に色々間違えているきがしてなりません。この世界が面倒事の押し付け合いなのだとしたら、私にとっては面倒じゃないよ!(夜勤やら介護の老人対応やら、細かいデータの入力やら、あれこれ)を、突き詰めていって、みんなで私にとっては平気!でしっかり分け合い、分ち合えば、もっと社会は上手く幸福に回る気がします。
それができていないから、社畜とか、仕事のストレスで鬱とか。仕事に嫌気がさして人生が辛いとか。そういう苦悩が世の中に溢れている気がします。記事の途中、自分のキャリア教育の未熟さに嫌気がさしたと書きましたが、社会全体としてキャリア教育が不十分な気がします。不安、欠乏感、期待の観点で、本当に自分にとってのベスト状態を企業や労働者双方側で模索できるようにしていくべきなのかなと思います。
とはいえ、学校とは、そもそもどんな企業でも働ける戦力というか、そこそこ使える労働者を大量生産するための装置として発足、機能させるものなので、こう考えると、学校教育や学校制度そのものを見直さなくてはいけないきがしてなりません。大量生産大量消費の時代は終わったので、詰め込み教育 ⇔ 創造性教育 位の安直な2項対立はやめて、もう少し包括的に教育を考えなければいけないなと思いました。
ちょっと話が大きくなってきたので、この辺で。思考の整理記事で、何か色々すいません。