自意識がすべてを台無しにする的な記事を見て。感想というか指摘
題名の件の記事を見ました。指摘や感想があったのですが、長文になりそうなので記事として書いてみました。他人の理論体系に矛盾というか違和感があるとつい書きたく、指摘したくなる完璧主義の性分は、ご容赦下さい。
すべての物事は自意識が台無しにするとのこと
該当記事では、自意識を明確に定義していないのですが、丸々とはなんぞや?と存在論というか、自分自身やその物事自身にたいしての自己言及することだと推察します。
記事の例でいえば、
芸術とはなんぞや?
真理を探求する哲学を、真理ってなんぞや?
お笑いってなんぞや?
とその存在を考えたりや指摘することだとしていました。直感的に純粋に楽しんでいたのに、冷や水をぶっかけられて白けるような行為とも言及しています。
自意識も必要な事柄で流れの一部
記事では上記の例をあげながら、文化の自意識は良くないものだとし、最終的な結論として、宗教や神には自意識(メタ=一段客観的にみること)は生まれない。神は神で、それ以上分解、客観視しようがないからだ。つまり、自意識のない無我の境地が大事というような話になっていきます。
いやいや、自意識は大事です。
例えば、野球をして楽しんでいる人に、野球とはなんぞや?と問うのは、たしかに冷や水をかけるようなおかしい話かもしれません。今楽しいし、撃ち方の練習をしているだけなんだからと嫌な顔されるのは目に見えています。
でも仮に、人間の身体が倍のサイズになって、塁間の距離やホームランの距離の意味合いが変わったり。新素材のおかげで打ち上げれば百パーセントホームランになるとかになったらどうでしょう。誰かが野球ってなんぞや?これが野球か?って野球についての自意識?的な問いかけをすることでしょう。
お笑いも芸術も哲学でも何でもそうです。自意識的ななんぞや?という問いかけとは、つまるところ、根幹や本質を省みようとする土台に向けた下ベクトルの行為であり、それは現状のなにがしが、その本来の形から逸脱してきたのではないか?という問題提起であり、揺り戻しとして自然に生まれる力学です。
もっと分かりやすくいえば、ストリートファイターでしょうか。時代毎に変化を求めて新しいシステムが各シリーズで採用される。そして、ファンの反応を見てまた次期シリーズに変更を考える。その更新の折々には、常にストリートファイターとはなんぞや?と問うてるはずです。原点を逸脱したら別ゲーですからね。新しい風と原点回帰の揺り戻しの流れです。
一方で、土台(なぜそうなるか?原理本質根幹)を無視して、ただ遊んだり。それはそういうものと認めきって、だからどうするか。どうやればうまくいくのかと上ベクトルだけで物事に向き合うこともなんら問題ありません。実学志向というか。理系的思考というか。なんらおかしなことではありません。しかし、ホームランだらけの野球になったときに、誰かがこれでいいのか?なんかおかしくね?と言い出してくる。ただそれだけです。
自意識的問いかけは、真だが、問題になるケースもある
というわけで、自意識は必要であり、自然に生まれるもので流れの一部なのでそれ自体は問題ないのですが、自意識的な問いかけが問題となる場合もあります、以下の3ケースです。このあたりを該当記事では混同している気がします。
・ライト勢やただの利用勢に、問いかける場合
・各自で自由に定義できるものなのに、他人に自己の定義を強要する場合
・答えがないものなのに、絶対解があると信じこんで、溺れる場合
携帯電話の仕組みに興味がない人に、携帯ってなんぞや?電気やプログラムってなんぞや?という根元的な仕組みや本質の話を問うてもしょうがありません。そんなものに興味がないからです。どう使えるか?どう遊ぼうか?の人になぜか?と問うことが筋違いです。冷や水をぶっかけられた気になるかもしれません。
先のストリートファイターの例ですが、人によって何をもってストリートファイターとするかは様々です。大体はにかよりますが、完全な合致はないでしょう。人の数だけ人生とはなんぞや?の答えがあるのと同一です。なので、それを無理解のまま、他人に正誤や善悪の決定に走れば、それは嫌で面倒くさいことになるのてしょう。絶対解や正解はありません。
最後は、芸術とはなんぞや?とか哲学とはなんぞやと考えすぎて、てが止まってしまうような場合ですね。自分がそうだと信じる信念という程度のものなので、先の通り人と違ってもいいですし。変わっていくこともあると思いますし。見失うこともあると思います。しかし、うちひしがれて立ち止まることが一番駄目で、なにか動いて作るからこそ、新しいなにかに接するからこそ発見があります。迷ったままの行動もなんら変なことではありません。それも必要な過程です。アウフヘーベン?でしたっけ。自分の理論体型のなにかを覆すような指摘を受けたのなら、エポックメイキングな出来事だと受け止めて、(採用できないと受け付けられないならば、その指摘はさらっと無視しましょう。その時その場所その人ではなかっただけです。)、その指摘に矛盾がないように自己の理論体型を整えるか、その指摘を取り入れて理論体型の大幅な見直しをはかり、新しいなにかを産み出すか。ただそれだけです。
終わりに
該当記事の、宗教に自意識はない(メタはない)という発言もあまり好ましくは受け止められませんでした。
そりゃ、与えられたゲームをプレイしているだけならば、そのゲームのプログラムに反したことはなにもできません。起こりません。プログラムという神には、プレイヤーは基本的には干渉てきません。神は神です。しかし、正しく捉えるならば、神が絶対なのではなく、与えられた経典?教え?(ゲームのプログラムを)を絶対である!と、信じているから、絶対になっているだけてす。
さて、誰かが作ったゲームのプログラムに全乗っかりすることが、本当に幸福への道なのかといえるのか疑問です。
自分の心と経典?が完全に合致しているならば、それは真でしょう。ストリートファイターを完全なる神ゲー!と称しているなら、それはそれでいいと思います。しかし、ストリートファイターに求めるモノが人それぞれ違うように、この教え(プログラム)のここだけはちょっと違うなぁ……は、出てくるともあると思います。その感覚や指摘をきっかけに、丸々とはなんぞや?と問うことこそが、あたなだけの本当の幸福に近づく道だとおもいます。答えは人様々です。但し、上述の通り、自意識の誤用の3パターンはお避けください。要らぬ争いのもとですので。