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嫌なら見るな 論争の解決と、その先へ

皆さんも聞いたことがあると思います。嫌なら見るな。嫌なら関わるな。嫌なら来るなとか亜種もありますね。さて、この言葉の正誤について検討してみようと思います。







嫌なら見るなを正しいと思う人

嫌なら見るなを正しいと考える人は、以下の3つの関連した要素を知らずのうちに支持しています。


1、個人 > 社会
2、個人主義が転じての自由の尊重
3、認識論(知覚できなければないと一緒)


人間は集まって社会を作っています。それを、集団や塊としての社会としてではなく、数多くの個の集まりに過ぎないと個人主義的に捉えています。それはそのまま、個人の自由尊重に繋がります。私はこれが好きとか、いいと思っている。それを邪魔するなら、関わりのないぐらいに向こうに行け!そっちもそっちで好きにしたらいい、なんで邪魔すんの!?と主張するわけです。そして、最後の認識論的な視点で補強され、知らないのはないのと一緒なんだから、互いに離れたところで、干渉しないで、自由にすきにやろうぜと思っているわけです。





嫌なら見るなを誤りだと思う人

嫌なら見るなを誤りだと思う人は、以下の3つの関連した要素を知らずのうちに支持しています。


1、個人 < 社会
2、社会重視が転じての、管理や秩序重視
3、絶対悪を規定する認識論


人間は集まって社会を構成しています。そのため、人間は個として存在しているものの、社会や集団としての塊でもあると捉えています。それは、秩序意識に繋がり、個人の好きなことを自由にやることも大事だが、みんなでルールを作って守り、社会そのものを良くしよう。より良い社会を目指そうと考えます。認識できなければ、ないのと一緒であるとは、彼らは捉えません。なぜなら、自分に認識出来ないとしても、社会の中に存在しているのならば、誰かに影響を与えると見なすからです。そして、社会を主語とした、絶対悪を規定し、社会からその絶対悪の追放のために、嫌なら見るなでは納得しないわけです。






正誤はない。と補足

つまり、この論争の根幹は、個人主義が強いか、集団主義が強いかの対立構図です。主義と主義のぶつかり合いのため、正解はない。つまり、嫌なら見るな論争は、正誤がつけられないとなります。

もっと正確に言うならば、状況や文脈に依存するが正解です。例えば、狂暴な殺人鬼に襲われている。何人が束になっても絶対に簡単にやられる。とにかく武器を持ってる人のところまで助けを呼びに行くしかない!!となれば、各自が好きな方向にちりじりになる個人主義的な動きが正解になります。一方で、十人でしか開かない重たい扉の中に隠れようとなれば、各自が好きにやるより、全員の力を合わせ意志を一つにまとめる集団主義が正しくなります。

少し変な例ですが、言わんとするところは伝わると思います。さて、後はこの論争の周辺も整理しておこうと思います。




強制、制限論

見るも見ないもこちらの自由だ!なぜ、見るなと勝手に強制されないといけないのか? その理屈はおかしい!

見るな!(嫌なものはみない)を、見せないように制限されるとニュアンスをすりかえています。そして悪い印象へと導いています。さて例えば、最初からシステム的に弾くように設定できるとしましょう。言い換えるならば、完全にその人の世界からはシステム的に始めから嫌なものが抹消されれば、制限も強制もなにもありません。最初から嫌がないわけです。そして、それはその人の意思のもとで、嫌と認定する自由意志と行動の結果です。外から嫌だと決めつけたわけではありません。

反論として、嫌なものでも見たい、見る権利がある!もあります。他にも、みるまで嫌かどうかわからないという反論もあるかもしれません。しかし、これらは、その人のこれまでの傾向から十分に妥当性のある”嫌そう”というものも導けます。嫌でも耐えられる範囲とか、本当に無理がわかるわけです。つまり、強制や制限だという指摘は、嫌の排除方法に関する技術的不足を訴えているだけで、思想や論理の本質的な部分では機能していません。端的に言えば、嫌なものは見ないという行いの正誤を説いてはいないのです。




権利の侵害論

嫌ならこなきゃいいとか、しなきゃいいの方で使われることの方が多いかもしれません。自宅の前で騒音を出されて困るとか、そこでそれをされると邪魔だ!的な権利の衝突の例をあげる場合です。

例えば、公園で固いボール遊びをしている。他の遊びをしようとやってきた子が、固いボールにぶつかりたくないと言い、ならボール遊びが嫌なら来るな!と排除される。そんなイメージでしょうか。要は、来るなするな!によって遊べるはずの”権利を侵害”されているという主張です。言い換えるならば、資源や場所やら我々の社会には限りがあります。なので、その嫌なことを認めるせいで、他の所でわりをくらうとか。二つが両立できない!という反論といえます。

この反論は、一見正しく聞こえます。他の人がするはずの権利を侵害する事は誤りです。しかし、当初述べたように、それは”社会に限りがある場合や両立できない場合において”という前提条件を足した、限定的なものです。全ての嫌なら○○シリーズに該当するものではありません。むしろなんなら、権利の侵害が悪程度の汎用すぎる解答でしかありません。




事故論

偶然みてしまうかもしれない。百にならないのだから、事故る可能性があるのだから、その理屈はおかしい!

これは極論による印象操作ですね。外に出たら月が落ちてくるかもしれないから、外出するべきではないと一緒です。もしもたられば、万が一等の、物凄い可能性の低い事象を、ありうることすりかえる詭弁です。




嫌なら見るなを正しいとする人の認識論への指摘

嫌なら見るなを正しいとするような側で、散々指摘してきましたが、嫌なら見るなを正しいとする人の、ないものや知らなければないと一緒にも、指摘があります。知らない方が良いことがあるは、文字通り、良いであり、最善ではありません。

例えば、あなたは食べているラーメン店の厨房を覗いた。その汚さに、それまでのおいしさを感じられなくなぅたとか。遠い世界の貧困や悲惨な社会の様子を知って、気分が落ち込んだとか。まぁ色々あるでしょう。確かに、自分にとって”都合の悪い事””嫌な事”は、知らなければ、へたに知るよりマシです。しかしそれはベターであって、ベストではありません。都合の悪い事そのものが解消されることこそが、その人にとっての本当のベストな状態です。問題を無視することでは解決になりません。

つまり、なければないも一緒だ!だけで、嫌なモノを見るな!を主張して押し切ろうとはできません。





おわりに

結論を繰り返しますが、

つまり、この論争の根幹は、個人主義が強いか、集団主義が強いかの対立構図です。主義と主義のぶつかり合いのため、正解はない。つまり、嫌なら見るな論争は、正誤がつけられないとなります。

じゃあ、この問題や論争を解決するにはどうればいいのかとその先の疑問が浮かびます。その答えとして、結局のところ争いに対する根幹でシンプルな、権利の侵害をするかしないか。それだけしか線引きできないと思います。つまり、当事者やその関係者らの権利侵害が生じていないかがポイントでしょう。

非実在青少年問題なんかその最たる例かと思います。18歳未満の実在しないキャラクターに性的ななんたらすることも違法だ、そんな視覚的な描写物は作っちゃだめだ!みたいな話ですね。嫌なら見るなを許せない派が、強引にそれを遂行しようとしたわけです。

好きも嫌いも自然と感じるのは、誰しも当然だと思います。しかし、それを実現や排除するために他人の権利を侵害しようとすることが誤りです。なので、互いに罵り合っても不適切発言扱いされない社会が一番健全な気がします。実行や排除することが悪なんです。無理強いや取り繕いが好き嫌いのわかりやすい本音をややこしくして、無駄に話を広げているだけで、本当に分かり合えないな!と互いに笑いあえばいいのだと思います。

あれは嫌だながとげがあるならば、あれを私は格好いいと思わない!位でみんな笑って言い合い許容できることが、嫌なら見るなへの本当の答えだと思います。まぁ現実問題、仮想空間や自動生成で、誰の権利も侵害せずに、自分の欲しいものが与えられる社会になっていくんでしょうけどね。易しに流れるのが人間ですから。

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