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夏の空の下(小説メモ)

夏の陽は俺の肌をじりじりと焼き付ける。真っ青な青空に、乾いたグラウンドの土に白線を引けば照り返しで目が痛いほどに眩しい。
「あっちーなぁ」
俺は太陽を睨みつけるもギラギラと光を返されるだけで、沈むのなんかまだまだな12時に奴は真上で笑うように照っている。
俺はラインカーの石灰を吐き続ける口を閉じてやると、体育館へ逃げるように向かっていく。体育館のやたら頑丈で重い鉄の扉は、ここに卵を落としたらそのまま焼けちまうじゃないのか思えるほどに熱い。全くこんな扉を付けたやつはバカに違いないと思いつつ、またバカみたいに重い扉を腕や肩に無駄に力を込めて開ける。
「ほら、お前も入れよ…」
誰も隣に居ちゃいないが、自分の持つラインカーに向かって話しかけて持ち上げる。今度は扉と同じく雑とはいかず石灰を何かの間違いで吐き出したりしないように慎重に。それでも俺が吐く息からは自分でもうんざりするほど疲れや腹立たしさを孕んでいたが。
体育館に入っても暑さに逃れられることは無く、もったりと暑さが俺を取り囲むだけだ。昼休みに入ったばかりだというのにシューズの擦れるような音と男子の騒ぎに近い声が聞こえる。
「大祐先生もバレーする?」
「お前ら元気だな。飯は食べたのか」
生徒はピッと三本指を作って、そんなん3分で食うのがポリシーなんでと言いながらコートに駆けて行って再びバレーの輪に混じるのであった。
何がポリシーだっつうの。まあ、学生の時は俺もそういう謎の使命に駆られていたことはあった。夏と学生ってのは大概にバカであり、その化学反応ってーのは掛け算が出来りゃ言うまでもない。俺は額に走る傷痕のあたりにかいた汗をぬぐって、埃臭い倉庫に入る。
ラインカーを入り口隅に置く。その横にボールラックにバレーボールが床にいくつも転がっている。支柱が立てかけてある近くのネットもごちゃごちゃだ。
「おめーらちゃんと片付けろよー」
倉庫扉から顔を出して生徒に注意するも、「うーい」といった何とも言えない返事と手を振って返された。仕方ない、ついでで片付けるか。
ボールを一個一個取ってはカゴに投げ入れていく度、汗の粒が床に落ちた。つくづく思うのだが、学校の塗装だ廊下のワックスだと金を定期的に回せるのなら体育館にもクーラーを設置してほしいものである。新任したての俺に校長を敵に回す勇気はないので、あくまでそれは自分の内に留めるのだが。昔の校長ならもっと融通利いたかもしれねえなぁと思うが、俺も学生としてここにいた時と今じゃ年数が立ってるんだ、仕方がない。
「っと…。あともう二個か」
むろんそんな要望をわざわざ出しに教師になったなんて動機じゃない。俺がここに戻ってきたのは、もっとずっと愚かさにあり、それに対して自分が…どうしたいのかも未だ分からないのである。
投げたボールはラックの端を跳ねた。その拍子に支柱にぶつかる。
「あぶねっ」
ぎぎ…と金属音をかすめかせ傾く支柱を支えようと寄るも、足元にあるボールに足がもつれた。あ…やばい.…よろけた俺の顔に支柱が振り下ろされた。
倉庫外にも響く重い音がした。俺は避けたつもりでも額を打ち手を当てれば掌はべったりと赤い液体に塗れた。血が、流れている。そのまま力なく床についた。傷が第二の心臓のようにどくどくと脈打つように痛む。俺はもうとっくに日常に希釈したと思っていたあの事件のことが頭によぎった。
鉈と、血液と、落ちる耳。鉈と…俺はあの時の犯人の目が忘れられない。血液と…額から頬まで肉が裂けて目の前が真っ赤になった。落ちる耳…あれは半分俺が負わせたんだ。
「か、狼谷先生…」
俺はあの時の弱い学生のままに一人の男に助けを求めた。それはほとんど独り言みたいな俺だけの祈りと懺悔の言葉だ。
気づけば俺は息が上手くできない。ガヒューガヒューと不気味な音を立てて、俺はこのまま死んでしまうんじゃないかと恐ろしくなった。
物音で駆け付けた男子生徒が慌てて何かを言っているのが膜を張ったようにぼんやり聞こえた。苦しくて頭は真っ白なのに、この情景を幽体離脱したようにやけに他人を冷静に見ている。生徒が呼んでくれたのか教員が何人か集まり、その中に狼谷先生がいた。昔から俺の目にすぐ飛び込んでくるような男だ。背は俺と同じで180はあり、つやのある黒髪をまとめたスタイルに青の瞳は誰よりも目立つ。そこに唇から顎にかけて走る疵と垂らした片方の前髪の奥の耳は削がれ落ちている…疵が付いた宝石の男だ。狼谷先生は人の群れをかき分け俺を抱き上げた。狼谷先生は周りの先生生徒に何か言って、そのまま足早に歩き出してしまった。
「…すけ、大祐」
狼谷先生が俺の名前を呼んでいる。ちらちらと素早く流れている廊下の天井と真剣な顔の狼谷先生は廊下の先と俺を交互に見る、それは妙な映像であったし同時にまた俺は同じ映像を見ているのだなと思った。デジャヴだ。狼谷先生は俺の頭を2,3撫でるとドアを開けたのかガラガラと音が聞こえた。ツンとした薬品の匂い。保健室だ。間違いなく俺はまたあの時に戻ったのだと、懐かしいような安堵のような、あるいは恥ずかしいような気持ちになる。心がくすぐったい。

狼谷先生は俺をベッドに寝かしつけ、傍にある救急箱から消毒液を取り出して綿に浸み込ませる。
「切れた額は出血しやすいが、見た目ほど深い傷じゃない。大丈夫だ。少し痛むが我慢しろ。」
狼谷先生は俺が答えずともその一言一言を俺に言い聞かせるようにゆっくりと話す。濡れた綿を傷に当てられピリピリと痛んだが、狼谷先生の口ぶりのように泣いたりはしなった。それが子供扱いなどではなく、彼本来の優しさからくるものであることを俺は知っている。
「…こんなもんでいいだろ」
「狼谷先生…」
ガーゼを張り付けて俺の頭を撫でる先生の手を取る。名前を呼ぶ以上に何も言えない俺を見て狼谷先生は目を伏せて片方の口角を上げると、俺の眠る布団の中に入った。俺は躊躇いつつも狼谷先生に抱きつくと、その太く大きい腕は俺を包みこんだ。
保健室で狼谷先生とこうして過ごすことは随分と久しぶりだった。深呼吸するとあの時と変わらない煙草の匂いがする。狼谷先生は昔から俺が何も話さずとも、俺の頭を撫で続ける。この男と触れているところが熱い。蝉の音をただ聞くだけで、俺は夏にいる。そうだ、俺は今の俺を生きている。

俺が高校生の頃、担任が狼谷先生だった。その頃の俺といえば警察になるのが夢だった。父と母は警察官で物心つく前からその正義感に憧れていた。勉強だって頑張ったし、態度も良かったはずだ。けれども両親は俺を認めてくれなかった。
その頃進路を決める時期に入っていたので大いに焦ったが半分気持ちは挫けて投げやりでもあった。晴れない気持ちのままの修学旅行の行先は海外だ。自由行動の時間、俺は一人だった。クラスメイトが陽気ではしゃぐような気持ちには俺はなれなかったから一人の方が気楽だった。入り組んだ道に迷い込むと銀行に何やら人だかりができていた。その人たちの話の断片を繋ぎ合わせるのも難しいが、知っている単語を拾い上げるとどうやら何かの事件が起こっているようだった。俺はその時ばかりは何を思うかよりも、さっさとその人だかりをかき分けて飛び込もうとした。「おいっ、大祐!何してんだ、探したぞ」自由行動の時間も終了しても戻らない俺を探して狼谷先生が俺の肩を引く。「…お前まさかこん中入ろうとしてんのか」狼谷先生は俺を止めるように腕を引き戻したが、俺は目の前の惨劇を放っておくにはいかなかった。俺は両親の子だからだ。…今思えば、考えもないガキに飛び込んだ後に何ができていたというのだろう。
地獄という場所がどういうところなのか。それはまさしくその飛び込んだ先の状況そのままであろう。銀行員の誰もが真っ白な顔をして、何人かは切り付けられたのか出血しているも、加害者を逆上させないために泣くことも助けを叫ぶこともできず、腕を組みながらただ助けてもらうことを祈っている。とはいえ、あそこまで人だかりがあるということは警察がここに乗り込むのも時間の問題だった。犯人の男は八方塞がりな現実をやっと感じて錯乱しているのか、あるいは精神的発狂に入っているのか、薬物で現実なんてもんはすっ飛んでしまっているのか、その全てか、怯えるような憎しむような瞳に手には大きな鉈を持っていた。その鉈は無知無力の俺の顔を傷つけ、優しさで俺を追った狼谷先生の口を切り耳を削ぎ落した。…それ以上に思い出せない。
警察の救助にあったのはそれから約3時間後であった。治療の処置を受け、取り調べを重ね、日本に帰国した俺は両親からは当然褒められるはずもなければ、意外にも怒られることもなかった。ただひたすらに謝られたのだ。何かの物事を綺麗に解決することは難しい。正しいことを正しいと貫くには障害を乗り越えなくてはならない。それは時に自分自身を脅かすものであるということを両親は肌身で感じていたのだ。だからこそ俺をその道に行かせたくはなかった。今は両親のそういう気持ちがあったことに気づける。
何よりも俺は狼谷先生のことで気が気でなかった。しばらくの入院で何度も通った。学校に先生が戻ってきても、俺と、ともすると先生の日常もすぐに戻って来ない。先生は俺よりもトラウマティックな様子は見れなかったけど、それは表面的なだけなのかもしれない。それを思うと、授業中も内容は上の空で狼谷先生の心ばかり気になるのであった。俺はそれなりに平気に過ごしているつもりだったがふとした時に恐怖が蘇ってはびくびくと怯えるのだった。家庭科の時間は特にダメだった。包丁を見るとあの時の事件を思い出してしまって倒れてしまう。その度に狼谷先生に保健室に運んでもらってはこうやってただ抱きしめてもらっていた。

かつてはこうしてもらわないと俺は生きていけないのではないかと思うこともあったが、いざ離れてみると平気で過ごしてしまえる薄情な自分がいた。それがどうしても寂しく、自分自身許せなかった。あれだけの痛ましさを先生に負わせておいて自分が幸福になっていいものだろうか。女々しい依存なのかもしれないが俺は確かに狼谷先生を必要とし、それを応えてくれることに幸福を感じていた。
「狼谷先生…」
「うん」
先生の大きな背中に腕を回して頭を胸にあてる。じとじとと汗がにじみ出るが、お互いにそんなことは気にしていなかった。それだけに狼谷先生もこの瞬間を大切にしてくれているということが嬉しかった。
先生の許容を試すように、狡い俺は回す腕を背中からぬるぬると先生の口元の疵に触れた。狼谷先生は閉じていた目を開けて、俺を見つめて笑う。
これだけの大きな疵をこの男にも負わせておいて、単なる事件だなんて薄汚い思い出にしたくない。もっとずっと運命的なものを見出していたいと思うのは被害者意識に当てられすぎているのだろうか。
狼谷先生の手が俺の頭から背中、腰まで撫でおろす。
「っ狼谷先生…先生…」
「大祐」
暑さと先生に触れてもらう場所と先生の声で、俺はのぼせ上ったみたいに息が上がる。俺と狼谷先生はお互いの名前の先に続く言葉を言わなかった。しかしそれだけでも十分だった。名前を呼ぶ声の奥にある感情が薄いカーテンから覗いているように、きっとお互いに感じていた。
あの時は学生と教師で、俺はその守られる立場で甘えることができたが、今となればお互い自立した大人同士だ。そういう者たちが抱きしめ合うなど、可愛がるような気持ちとは違う情がそこに垂らされているのに俺はとっくに知っている。合わさる腰の、そのスラックスの下を想起してしまう俺をこの人に悟られたらと思うと、優しさを利用しているような気がして離れようと思うも狼谷先生に引き寄せられるばかりであった。
「お前、まだ気持ちが過去にいるんだろ」
狼谷先生は小さく囁くように俺にそう言う。俺はそれがなんだか自分の未熟さを指摘されたようでカッと顔が熱くなった。狼谷先生は責めてるんじゃないと言いたげなゆっくりとした手つきで耳を撫でた。続けて俺達にしか聞こえないような声で話す。
「大祐がここに戻ってきた理由は、なんだ?それは本当に贖罪のためなのか?違うだろう。」
その通りだ。俺は狼谷先生に対して謝りたくてここに戻ってきてはいなかった。だけど、それが自分勝手な理由な気がして俺はもっともらしい理由を下げていたのかもしれない。
「俺は…ちゃんと狼谷先生が見たくて」
俺は自分でも初めて気づいたようにぽつぽつと続けて話した。
「俺の気持ちが変にフィルターがかったものじゃないと確信するために、狼谷さんのこの気持ちが錯覚じゃないと思いたくて…会いに来たんだ」
「それで、会ってみてどうだった」
狼谷先生は俺の額に自身の額をくっつける。鼻先が少し当たる。
「変わらず先生は俺に優しくて、俺はそれに甘えたくてたまらなくなる。もっと狼谷先生が…狼谷さんが俺の傍にいれくれたらいいって思う」
俺と狼谷さんはまつ毛が重なるくらいに近い。俺は目を伏せて狼谷さんの口元の疵から手を離すと、狼谷さんはその手を取って自身の頬に当てる。
「俺が見たいんだろう」
狼谷さんのその声に俺は目を再び狼谷さんの瞳に戻す。青の瞳。青は炎が一番熱く燃えている時の色。お互いに目が合うと、そのまま自然に目を閉じていく。
俺は小さく口を窄めて言葉を放つ。ずっと狼谷さんに抱いてきたものだった。カーテンが靡いて蝉の声がする。その声に俺の狼谷さんへの気持ちの吐露はかき消されて誰にも聞こえないが、確かに狼谷さんに届いていた。
保健室の外ではカーテンの奥で二人の影が重なっているのが見えた。燦燦と降り注ぐ太陽の光に快晴の空は何時の雲の上でも同じことだった。



おわり



以前小説メモとしてあげた「春の気まぐれ」の続きになります。読まなくても読めるようにしたつもりですが、教師、生徒の関係でいったん離れ離れになったところから教師同士としての二人の再開について狼谷さん目線で書きました。(今読むと拙すぎてびっくりする。まあだんだんとうまくなっていけばいい。)今回は大祐目線ですね。
狼谷さんは自分のキャラではなく、お借りさせて好きに書いているので実際と違う所は多々あるかもしれません。百鳥さんに感謝です。ありがとうございます。
次は秋ですね。ネタはまだ考え中です。秋編も飛び込んで読めるオムニバスっぽいシリーズに仕上げたいですねー



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