絵を描くこと、振り回されないこと

数字とか、他人の地雷とか、AIだとか、もう本当にどうでもいい。
私たちが描いてきた上で、そんなの必要あったっけ?
ネットが無いとき、どういう風に描いてきたっけ?

フォロワー2万超えたアカウントから離れ、別のアカウントで過ごして2カ月経つだろうか。
今のところ乗り換えた先の方が居心地がいい。だから戻る予定はない。
私の思い出になればいい。

フォロワーが100人から500人、1000人、10000人と上がっても、承認欲求が消えることはなかった。
指標が数字に拘るのなら、それが消えなくて当然だ。そして、身の回りと比べはじめ、安堵することは他人をバカにしている。傲慢な自分に嫌気がさし、それでも数字に振り回され、その歯車に乗ったまま私は描かなくてはいけないと脅迫的に思うのだ。
それはまるで能動的とは言えないし芸術なんていうのは冗談もよしてほしいものだし、下劣な自己満足でしかない。
こういう泥水のような部分は何を獲得しても全く消えない。

もちろん、その思いを抱え、振り回されないように自分が描きたいものを描いてきたつもりだ。(というか、それはSNSで絵を上げている限りそういう風に自分の心と戦っている人は多いかもしれない。)
しかしそう描いている最中、どこか自分を満たしきれないのである。どこか自分の芯から描いている気がしない。心の奥底で2万のフォロワーに見合うものを描こうとする浅ましさ、薄汚いプライドが私を圧迫している。

だからこそ、絶対にフォロワーに媚びた絵なんか描いてやるもんかと思っていた。他人から映る私のことは知らないが、少なくとも私はそうしてきた。
元々過激な漫画ばかり描いていて、そういうのを求めていた人も多くいただろうけど、だからこそ描く気持ちがない。好きだが、自分が描きたいとなった時にしか描きたくない。気持ちが甘えるような誰かにウケるための絵なんか描こうと思えない、いや、そういうことは常々思っている。だけどその自分が嫌いだから、私はその媚びへつらう私をぶち殺したくて、人気のために描きたくなんかない。
..….好きなように描けばいい、めんどくさい。しょうもない。

けっこう好き勝手に描いてきたと思う。それでも人から見たら、過激な方に偏ってるように見えるかもしれないけども、それはもはや私のくせだろう。デフォルメとか、夢絵もBLも単発的なオリジナルも描いてきて、メディアを見れば統一性が無い。
作品のジャンルだけで自分を見られるのが嫌だった。自分自身の絵を見てほしくてそんなことをしていた。
あなたはたかだか2万が、コンテンツ気取りと私を笑うかもしれないけれど、私はそうやってプライドを持っていた。だけどそれは優越とかそんなものではない。すごく苦悩したと大事にいうものでもない。地味で、粘っこくて、誰に言う必要のない戦い。

スランプというものが私にあるなら、それはアイディアが尽きて描けないなんてアーティストの苦悩には立っていないだろう。
それは私の錯覚である。私は「誰彼にウケるようなアイディア」が浮かばなくて筆が進まなくなるのだ。筆が止まる時、たいてい余計なことを考えている。その余計なことというのは、それらしく着飾っているだけで奥底では絵を描くときに誰かに褒められたい認められたいという浅ましさがあるのだ。
そんなものを私はとてもじゃないが、スランプなどと言いたくない。そんなことで私が描けなくなるなら、ずっと描けなくなっちまえと思う。
私は描かない私の可能性をそもそも考えていない。明日になったらどうせ描きたくなっていると思っている。一週間もたてば描いていると思っている。自分の染みついた週間を無くすことの方が難しいと思っていて、私が描くことに対して私が信じているから、ずっと描き続けている。スランプなんてぶつからない、私がそれを認めたくない。

私の絵を本当に好きでずっと見てくれている人がいるのも分かる。恩を返せた気はしない。そんな力もそもそも趣味レベルの私には無い。
好かれれば当然私の創作や絵が嫌いな人もいる。直接言う人もいれば、リプやDMや引用で伝えてくる人、マシュマロで伝えてくる人。
私のようなモラルに欠ける漫画を描いていれば当然かもしれない。そうなれば私は折れる他ない。善悪の認識があるからこそ、悪を悪として描くのだが、それを自分で分かっていても他人が私のことを知ろうとしなければ仕方ないし、普通そこまでして見る人はいない。
そうやって人に受け入れられるように形を変えた創作、それでも私の当初予定していた終着点に行かないことに絶望して終わらせたこと、それがいくつかある。

今話題になっている、例の醤油皿でそれを思い出すのだ。
どっちが悪い?芸術ってどこまでを責任持って芸術って言えるんだろう。原点がその不透明さのままなら、誰も悪くないんじゃないのかな。
そう思いたいだけなのか。私がそうして私を受け入れなければ、私の創作はどこに行く。私が認めなければ私が描いてきたものを殺すのか。私の弱さなのか。今は逃げなのか。

正解は多分ない
私たちは誰に認められずともずっと描いてきたことを、ネットにあげて気軽に評価を受けることができてしまった。
人は評価を下すことが好きな生き物なのだ。
不正を知るものはそれを下す対象よりも優れているものでなければできない。評価をすることで、自分自身が優等であることの証明を同時にしているのである。
数字に振り回されて、人の炎上に群がって、まるでがらんどうな自分自身を持たないなんて、虚しいじゃないか。

その上AIが出てきて、本当の空っぽのものがSNSに蔓延る。
数字目的か、それを使って金銭を得るのか知らないが、それは全く自分への評価ではない。全く自分の実力ではない。それを得ても、全て錯覚のもので自分とは乖離している。それが、自分自身を完全に満たすだろうか?
私が2万フォロワーに到達して「フォロワーのための自分という偽の自分にならない」ための本物の苦悩、それでもくだらなくてもプライドがあったこと。私でさえあるのだから当然他の人にもあるはずのプライドさえなければ苦悩さえしない。金や地位があるからと言ってそれが必ず幸福を約束してくれるものとは思わない。

「私は私を良しとする」という強さを誰しもが持たないとすぐに薄汚れていくそういう段階に入ってきている。
それが揺らぐことなく持っている人はやっぱり私は魅力的に見える。私もそうでありたいと思う。

私は趣味で絵を描く人。趣味は私の中で楽しむもの。
私の外側がどう見えても、私がどう私を評価してもそれは変わらない。これは私の決意だ。

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