健康志向を吹き飛ばす究極の健康法 おばあさん達のハイパー・トレック
野菜を食べろ、サバ缶だ、納豆は新型コロナを撃退する、誤嚥性肺炎を防ぐ食べ物ならコレ。
世の中には健康情報があふれている。それがテレビなどのメディアを通じて集中的に報じられるので、スーパーマーケットやコンビニではいきなりサバ缶が消えてしまったり納豆が入荷待ちになったりするのは大多数の人が経験していることだと思うが、テレビを持っていない「ゆめのよな」は、スカスカの商品棚の前で、おろおろするばかりである。
人生百年時代を迎えて自分の老い先の健康を意識しないではいられないのはよくわかる。私もそのひとりなのだから。
玄米菜食を始めてからもう二十年以上。言い訳をしておくなら、私の玄米菜食はもちろん健康づくりのためもあるが、九州の山奥で生まれ育ったせいか、もともと粗食というか自然食が好きなのだ。
で、そういう自分のことを棚に上げておいていうのだが。
健康情報に右往左往するのはほどほどにしておきましょう。
健康情報に振り回されるほうが、正直いって健康に悪い。気持ちが落ち着かないし、疲れるし、騙されたと気がついたら腹も立つ。
医学の知識や情報も、栄養学の常識も五年十年でくるくる変わる。
それが間違っていたって誰も責任などとってはくれない。それが原因で体調が悪くなっても、あなたは泣き寝入りするしかないのである。
なので、ここから先は泣き寝入りするつもりで読んでほしいのだが、先日、新聞に行商のおばさんの記事が出ていた。
行商のおばさんというのは背中に自分の体の二倍ぐらいある大きな荷物を風呂敷包みで背負って、千葉県や茨城県から東京へと行商に出る女性達のことである。
荷物の中身は野菜で、前の日に収穫した鮮度のいいものを、都内の繁華街や住宅地などの道ばたに並べて、短時間で売り切ってしまう。売れ残ったらお得意さんを回って完売。
驚くのはその荷物の重量だ。
どれぐらいかというと、八十キロから百キロ。
ベテランの登山家だってそれだけの荷物をリュックに入れて山を上り下りしたら、そりゃへたるだろうに。
これを女性が日常的に、仕事としてこなしているというのだ。
それだけで驚いてはいけない。いいかな、みんな、腰を抜かすなよ。
記事に出てくる女性達というのは、おばさんというよりれっきとしたおばあさんで、八十三歳だの八十五歳だの、もう、超高齢なのである。
それが現役で八十キロも百キロもある荷物を背負って千葉や茨城から東京へと移動する。もちろん電車に乗るわけだが、それでも歩かなければならない距離はかなりあるだろう。
驚きついでにいうと、九十歳になるおばあさんもいて、この人が「まだ続けていたいけどコロナ騒ぎが収まるまでは出掛けられないわ」みたいなことをいって悔しがっているのである。
いやあ、びっくりした。健康で長生きしたいと思うなら、この人達をこそ見習うべきではないのか。
私の母親もそうだったのだが、女性は妊娠出産などで骨祖鬆症(こっそしょうしょう)になりやすい。年を取ると骨がスカスカになって腰が曲がり腰痛膝痛さらには転倒骨折ときて、筋力が衰え、歩行困難になったり寝たきりになりやすい。
これをなんとか阻止しようとして、中高年の女性はカルシウムだのタンパク質だのビタミン・ミネラルその他の栄養摂取を心がける。
ついでにそこらの中高年の男性はどうかというと、筋力強化とか精力回復のためにプロテインだのスッポンだの朝鮮人参だのバイアグラだの(ああ恥ずかしい)を求めて、涙ぐましい努力をするわけだが、これを追及していくと性欲関係の話になってしまいそうなので、今回はスルーしておきたい。
さて、八十歳九十歳になって八十キロだの百キロだのと、この世のものとも思われないような超重量物を背負って千葉や茨城と東京の間を往復しながら、さらにまだまだ続けていたいと訴えるような人達というのは、いったいどうなっているのか。
私みたいに、もうすっかりおじさんを一周して二週目に入ってしまっている万年青年デレデレおじさんがスーパーマーケットで野菜や牛乳や卵など十キロにも満たない荷物をオスプレーの最新装備の登山リュックに詰めて背負って、家まで二キロもないような道をひいひいいいながらよろけている人間とは骨格その他、じゃなくて、人間の格が違うのではないと思わざるをえない。
いや、そんなはずはないだろうよ。写真でみても普通のおばあさんなのである。この人達が私みたいに玄米菜食で、健康情報に右往左往しているとは思えない。
となると、これは考えなければいけない。
あだやおろそかに驚いたり感心したりするというだけではすまないのだ。
そうして、1500グラムのわが大いなる脳みそを熱くして考えた結果、これの差は食事やサプリメントとはほとんど関係がない。これは日々の生活の質(QOL)の問題なのである、という結論に達した。
おばあさん達は若い頃から、といってもたいていの場合は農家に嫁いでから行商を始めるらしい。花も恥じらう若い娘が自分より大きな荷物を背負って千葉と東京の間を行き来するについては、そりゃ苦労も抵抗もあっただろう。
それでもなんとかこなしていくうちに足腰が鍛えられ、夢中で過ごして、花は散っても胆力と生命力は咲き残り、何年か経つうちにはそれが当たり前になっていて、気がついたら病気知らずで元気で明るい長生きおばあさんに生まれ変わっていた、ということだと思う。
まさか、若いうちからこれがやりたくてやりたくて、夢にまでみて農家に嫁いだということではないだろうし(偏見だったらごめんなさい。昨今、女性を俎上に乗せるのはほんとに難しい)。
苦労も抵抗もあったのだけれど、八十九十になってみたらそれが大いに報われていた、ということなのだろう。
そんなおばあさん達はなにも最初から健康長寿を目指したわけではない。精魂込めて働いて、その結果、人もうらやむような健康長寿を手に入れたのだ。
彼女らが生活の質(QOL)を高めたであろうポイントは、私の千里眼によると五つあると思う。
ひとつ。足腰の強化。
ふたつ。閉塞感のある田舎から花の東京に出ていくという密かな開放感。
みっつ。行商仲間との連帯意識。
よっつ。買い物客やお得意さんとのしがらみのない出遭いや語らい。
いつつ。野菜を売るときのギャンブル的な興奮と売り切ったときの達成感。
注釈は必要ないだろう。千葉や茨城から東京まで重い荷物を超人的に背負って電車に乗って、仲間と意志を通じ合わせ、都内では道ばたに店を広げて客と語らい、売れたら売れたで喜び、最後はお得意さんの家を回ってお茶までごちそうになる。ここには生活の質を高める要素が集まっている。
これに比べたら、玄米菜食とはいえ私のだらだらした達成感のない生活など後ろ向きで不健康短命のためのものでしかない。
で、結論である。
自戒でもある。
投げやりでもある。
健康は丸ごと茹でなければならない(ん?)