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日々
他人から見た偏見に自ら近づいていく。
こんな感覚に陥ったことはないだろうか。私は今絶賛その波に飲み込まれている。最近働き始めてたアルバイト先で勝手にイメージで話されたり、その人が思ったイメージ通りの動きをしなければならないと言う呪縛に苛まれている。実際にバイト先で言われたのは「パチンコとか打たなそう」とか「アニメとか好きな感じする」といったもので、実は1年前ぐらいは月の収支表を付ける程のパチンカスだったしアニメは家庭の影響でほとんど見ていなかった。「現実でそういうふうに言えば解決するじゃん」、そんなふうに考えている人がこの文章を読んでいるのならこの先を読むことをお勧めはできない。今からあること無いことをグチグチと書きつられていくし、そんなサッパリした人に僕の文章を理解することはできないと思うからだ。
さて、話を戻す。この間もタバコ吸うの?と聞かれたときにも「最近ちょっとだけ吸い始めたんですよ」とは言わず、「全くですね、煙は大丈夫ですけど」なんてカッコつけた回答をしている。この受け答えからわかる通り私は他人の期待に応えたい人だと思うのだ。他人のイメージ通りに動く。それが自ずと他人の快感なんてものにつながっていたりするのではないかなんて考える。いやもはやそんなものではなく他人の期待や予想に応えたいより裏切りたくないが強いのかもしれない。
これはおそらく幼少期から備わっている私の機能である。物心がついた5歳ぐらいの遠い記憶だが、生まれて初めて焼き鳥を食べた時に皮の美味しさに感動し、これをいっぱい食べたいとおばあちゃんに私は懇願した。しかし焼き鳥の部位なんて概念が無い当時5歳の私は「皮が大好きで皮の焼き鳥食べたい」なんて言えずに、なんとなく覚えていた唯一の部位「レバー」を頼んだのだ。おばあちゃんは孫世代唯一の孫息子に頼まれたレバーをたくさん買ってきてくれた。大皿に盛られたレバーの光景は今も思い出す。僕より5つ上の姉は焼き鳥の部位を完璧に覚えており、私が食べたかった皮を貪っていた。親戚中から「体に良いレバーが好きなんて偉いねえ」なんて言われた日には僕は心を無にしてレバーにかぶりついた。レバーが好きな子供なんて存在しないのに。
このエピソードから分かるように私は人の期待と言うものを裏切れないのである。そこからは親が買ってくる焼き鳥にレバーがレギュラーとして定着し、断るタイミングをさらに失ったことは言うまでもない。この他人の期待を裏切るということに大きな恐れを抱いている。というか5歳から今に至るまでこのザマなのだ。どうにかしようという方が無理があるのかもしれないが、今の私的には何とかしてもうちょっと良い方向に引っ張っていきたい。もっと素直になるにはどうすれば良いのだろうか。もっと他人を振り回すには、自分の欲求に正直になるにはどうすれば良いのだろうか。ワガママになることと言うのは分かってる。だが、いままでイメージ通り遠慮を続けてきた人たちに向けていきなりワガママをぶつけるのもキャラ的に違う気がする。いや、キャラ的にとか言っている時点でワガママ失格なのである。ワガママなら気分屋に徹しよう。せめて新しい関係が始まったばっかりのアルバイトではもっとワガママや素直さを貫いていこう。だめならやめれば良いそれだけのことだ。なぜなら僕は気分屋でワガママなのだから。