腐った欲と共にあれ。
ひねくれている友人がいる。
自称も他称も捻くれ者だ。大学の頃の友人で、何を聞いても一度、本筋から外れた回答をする。ただ、行動は素直そのもので、向社会的である。信頼に足る人物ではあるのだ。
その友達と先日話題に上がったのは、性格の話だ。性格や性分はある程度の年齢以降、よほど変わろうとしない限り変化はないのではないかという命題である。
そこにきて私は、兼ねてから気になっていたので聞いてみた。
その性格を変えようとか、変えたいとは思わないのか、と。
別に友人を変えたいわけではない。ただ、リスクの高い性質ではあると思っていた。私とは、出会った頃から捻くれていたので、それを含めての友人である。
社会人になり、友人は友人なりに捻くれた自分を抱えながらも生きているのだろう。表に出す頻度や、タイミングもあることと思う。
それでも友人にとっての捻くれは、ある意味で好意の表し方である。親密な関係や、対等な関係で友人はひねくれる。
とするなら、最初は丁寧な友人と接していたにも関わらず、好感度が一定に到達するとともにヘソを曲げるのだから、相手は不愉快な思いをしたり友人の地雷に触れたのかもしれないと思うのではないか。
そうなると、友人が好ましいと思った相手と誤解なく関係を続けるのは非常に難しいように思える。私だって、今後何かの誤解をするかもしれない。あるいは、友人は本当に嫌がっているのに、捻くれているのだろうと高をくくって関係の亀裂が致命傷になるまで気が付かない可能性もある。
ただ、その上でなのだが、変わらなくていいと思っているのも本当だ。私はまだその核心に触れてはいないが、あらゆる行動には理由と原因が存在していると考えている。特に、不安は人を強く突き動かす。素直になること、好きなものに好きだということ、特に相違ない質問に「それでいいと思う」と言うことを阻害する何かが潜んでいる可能性は十分にある。だから、友人の言動は素直であったとしても、決して好ましいものとは限らない。
なぜ、私がこんな話をしているかといえば、私は自分を変えたいと思っているからだ。友人の話ばかりしているが、私はどうなんだという話である。
私がもし、25歳ぐらいで精神的な年齢があらゆる意味で止まっているとするのなら、私の精神年齢は非常に幼いように思える。私は社会人として出会ったあらゆる人に、敬語で接している。後輩だろうが年下だろうが関係ない。全員敬語だ。唯一、児童福祉をしているので、児童対応をするときはタメ口なのだが、これもまた難しい。名古屋弁をミックスした関西弁で話すのだ。これらは、どれも親密な相手に使う言葉ではない。大人の社会、子どもの社会でやりとりをするために必要な言葉遣いである。
なので、親密な相手に使う言葉というのは、まさしく大学ぐらいで止まっているのだが、この時の私というのがデリカシーが完全に終わっている人間である。相手がどう思うのかとかそういう事を考えずに面白いと思ったことを言ってしまう。正論だとかどうだとかではない。とにかく人と親しくなりたくなんかなかったし、正直嫌ってくれるほうが良いと思っていた。高校時代からそうだ。
先の友人とは違い、ただただ、相手を不快にさせることをオモシロイと思って言うアホであった。そのまま、25歳に突入したのだから、もう終わりである。もちろん、自分よりデリカシーのない人間は見てきた。しかし、そうした人たちより自分がマシだとしても、他人を不快にさせるパワーが減るわけではない。
そういうこともあって、対外的な私は比較的、相手を慮っている。敬語でも名古屋弁交じりの関西弁でも変わらない。しかしそれは同時に、敬語や関西弁を外さない私で居続けることで、それ以上の変化を望まないということでもある。
ただ、そうした鎧を取り払った時、私は幼いままだ。嫌われることを望んだままだし、その嫌われたい自分は人間関係の構築を恐れている自分だ。その自分は、と、さらにほっていくと小さい頃の私に出会う。感情のままに暴れまわっていて、喜怒哀楽とかそういう言葉さえも難しすぎるくらいドロッとした溶けそうな感情を抱えている。
例えばふわふわした柔らかいマシュマロの中に飛び込んで眠りたいとか、相手の喉笛に食らいつきたいとか、大きな荒波に蹂躙されたいとか、そういう一つ一つがマグマのような熱さを持って私の心の底を流れている。
そうした気持ちを精算するとき、私は本当に幼くなる。でも、そうした自分は普段抑圧している。
それは妻の前など親しい人の前でだけ溢れてしまう。ただ危害を加えていないだけで、思い出すと恥ずかしいこともえる。自分の感情に素直でこそあるが、その素直さの出し方を知らないので、探り探りになる。
受け入れて欲しい。許して欲しい。
そんな気持ちが、グツグツと湧いてくるのだ。でも、誰に受け入れてほしいのか、誰に許してほしいのかは判然としない。思い至るところでは親だ。でも、そのあたりはきちんと掘り起こしていないので、多分親だろう、と思うくらいである。
友人をそのままでいいと思うのは、翻って私も「そのままでいい」と言われたいからなのだと思う。しかし、そのまま、というのが分からず、ただただ、年齢不相応な自分が蠢いているのを感じる。それも含めて、そのまま、というのなら、濡れた服を着ているような不快感を抱えて生きることになる。それは、私が良くない。そのままで良い、と言われたらホッとしてしまうだろうけれど、今の私は変わりたいと思っている。欲望を手なづけて、もう少しだけ強く、エネルギーのある自分に変わりたい。
そのためにまた、自分の腐った欲望と向き合わなくてはならないのだ。