僕らなりのギャグ
友人から荷物が送られてきた。
メッセージも添えられている。
「翼を授ける」
わざわざギフトラッピングされた包みを開けると、中から出てきたのは紅茶であった。
ことの始まりは数日前。具体的には2021年1月11日、成人の日に読売新聞の朝刊に掲載されたレッドブルの広告である。
”くたばれ、正論。”と大きく掲載されていた。ボディコピーもついている。どうやらこの文字を見るとモンスターになってしまう人がいるらしい。広告を打ったことによって対抗するエナジードリンクの存在を示唆してしまうのはなかなかにエッジの効いた皮肉だ。私は色々迷ってから「まさかレッドブルがセイロンティーの広告を打つとはな」と友人へ送った。
イメージとしては「僕は正論よりもセイロンティーが好きですね」というセイロンティーの写真と抱き合わせになったツイートがたくさん出て、セイロンティーがたくさん売れてしまうような人の世の不条理を思い描いていた。
しかし、正直、この渾身のギャグをインターネットの海に投下する勇気は全然なかった。他にも「悲報:セイロンティー売り切れ。レッドブルの影響か」とか「セイロンティーが売り切れてるけどなんかあったの?」とか、色々考えていた。そのどれもが「ちょっと面白いこと言いましたよね」という自分の意識を感じてしまい死にたくなった。
なので、とりあえず、話の流れを知っていてかつ結構モヤモヤしていそうな友人を選んで送ったのである。
結果としては、ややウケであった。
そもそも、この「くたばれ、正論」における正論というのは、例えば「鉛筆は書くものである」といったようなものだと推察される。そのうえでボディコピーにおいて”行き過ぎた正しさ”と表現されているのはいわば「鉛筆は書くこと以外に使ってはならない」というような、正しさの延長線上にある理論を指しているはすだ。
しかし、こうした正論の延長線にある理屈は時に「鉛筆をつまんで揺らすと曲がって見える」という感受性や「折ったり燃やしたりするのはどう?」という衝動や「あえて曲がる鉛筆を作ってみる」という折る人がいることを前提としたアイデアを潰してしまうことがある。グニャグニャと曲がる錯覚を披露することも、鉛筆を折ることも燃やすことも、あえて曲がる鉛筆を作ることも可能ではあるが「鉛筆は書くこと以外に使ってはならない」という行き過ぎた正しさの中では生き抜くことは難しかったかも知れない。
「鉛筆は書くものである」のは正しい。それは鉛筆の全てではないが、否定できない一部分を書き表している。そしてその理論からまっすぐ線を伸ばした先にある「鉛筆は書くこと以外に使ってはならない」という領域には簡単に踏み込むことが出来る。
例えば尖らせた鉛筆で人を刺そうとした場合。鉛筆を燃やすことで火事になりそうだった場合。鉛筆を齧ってお腹を壊した場合。一つ一つしてはいけないことリストを作っていくよりも「鉛筆は書くためにあるんだからね。そういうことをしてはいけないよ」と括るほうが圧倒的に楽なのである。
ただ”くたばれ、正論”がここまでのことを言っているかというと、そうではない。おそらくこうして長々と解釈されることはこのコピーとしては年間広告大賞の審査でやるならまだしも、一人の人間がうーんと立ち止まって「鉛筆を例にすると……」と語るようなものではない。
このコピーについて語った場合、普段私がどのような意味合いで「正論」や「くたばれ」という言葉を使っているかが露呈するが、それ以上ものはなにもない。先程「ここにおける正論」について語ったので加えて「ここにおけるくたばれ」の解釈もあるのだが、しかし、違うのだ。それはこの広告の意図するところでもないし、どれほど語っても私のこれまで使ってきた「くたばれ」のイメージ一覧を展示するだけになる。
今回はそういう話ではない。
私にとっての問題点は全く別のところにあった。
友人に電話をつなぎ、Twitterを開いた私はウンウンと唸っていた。
「なぁ! 『レッドブル セイロンティー』で検索かけても誰も何も言ってないんだけど! つまんないのかな!? 俺のギャグセンス、だめかな!?」
友人にややウケだったネタを誰も言っていない現実を受け止めきれずにいた。
「みんなどうしちゃったんだよ……。『5億年ぶりに』とか。『死んだ』とか普通に嘘ついてたじゃん。『レッドブルのせいでどこのコンビニにもセイロンティー売ってないんだがwww』とかそういう、さ。もう、あれ。逆に、あれよ。俺は調べて「あー、もうやってるかー」っていうのがやりたかったんだよ。いねぇじゃん」
居たら居たで文句を言っただろうに、居なかったとしても変わりがない。つまるところ私は「恥ずかしいことを思いついた」という感情の発露を求めていた。
友人は笑ってくれていたが、一人笑わせたらもう一人くらい笑ってる人がいるのではないかと思ってしまう。しかし、祭りが始まってると思って出向いたら幻覚だったかのような喪失感ばかりが手に残る。
面白くない。全然面白くない。いや、俺のほうが面白い。俺のセイロンティーの方が、絶対に面白い。
その後も「セイロンティー」という検索履歴を残しながら、いろいろなツイートを観測していた。そして「いや、違う」「分かってないわ」などと文句を言いながら、見知らぬ人のツイートをスクロールした。
一度上がったテンションは簡単には下がらない。そして次第に、出てくるのは数日以上さかのぼって、セイロンティーを幸せそうに飲んでいることをツイートしている人ばかりになった。
「……俺は……こんな……こんな大人にはなりたくなかった。なんでもない普通の人がお茶を飲んで幸せそうにしている様子に首を突っ込んで『わかってない』なんて言う人間にだけはなりたくなかったよ」
人は、その場のテンションとセイロンティーでここまで落ち込むことが出来る。本当は分かっている。今セイロンティーが爆発的に売れても、本当にセイロンティーが好きな人には届かない。
私が「もうコンビニ100件回ったけど、セイロンティー全然なくてワロタ」と言っても、わざわざ飲料コーナーの棚まで行って「ありましたけど」という報告を私にするためだけに写真を撮ってくれる人などいない。今、Twitterは、留守なのだ。皆、どこかへ行ってしまった。
そして私はもう呟いたことさえ忘れられていられるであろう古びたツイートを友人とともに眺める。
「あぁ、この人、紅茶おすすめしてる」
「ほんとだ」
他人に見られることをほとんど想定していないであろうツイートのやりとりを眺めた。通りがかりの人でも、こんなにマジマジとやり取りを見られたら、きっと嫌だろう。独り言や、街中の会話に耳を澄ませて「今の、聞いた?」と話を振るのは、あまりいい趣味とは言えない。ましてや、相手は優雅なティータイムのついでにつぶやいている人である。
私と友人は、セイロンティーについてつぶやかれた数のグラフを見て笑う体質になってしまったし、セイロンティーに対して半数以上が好意的なツイートをしていることを知った。
そうしたやり取りを経て、数日、友人から前述の紅茶が届いたというわけである。届いた紅茶は、見知らぬ人がおすすめしていた銘柄だ。あの人も、自分のツイートがきっかけになってお茶を贈り合っている人間がいるなんて知らないだろう。知らないほうがいいかも知れない。
ともあれ、レッドブルの広告のおかげでお茶が売れることもある。
そのラベルには「アールグレイ」と書かれていた。
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