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笑顔の輪と、その外側と。

昼頃、LINEの通知が鳴った。

「夏休みはあるか?」

関東に住む友人のKからだった。一応、夏休みはある。東京に戻る予定があって、もしかしたら会えるのではないかとその時思った。しかし一方で、ただ気まぐれで聞いただけとか、結局予定は合わないとか、そういうものであってほしいとも思った。何より、何と答えればいいのかわからなかった。私は迷いに迷って「あるぜ」とだけ答える。

「いつ」

Kからの返答はとても短いものだった。私はなんだか、妙にやきもきして「やめろ! なんか、ドキドキするだろ!」と言ってから夏休みの日取りを伝えた。Kは「おまえは何をいっているんだ」と言いながら、夏休みが友人にもあり、どこかへ出かけるから私も来ないかと誘ってくれた。

「引きこもりの旅行ってやつだな。世界から外れて、少し一息つくために山のホテルに行く旅」

私はこぶしを握った。心臓がどきどきする。多分、宝くじが当たったとか、倍率の高いコンサートのチケットが当たったとか、そういう時に私はきっと同じ反応をするだろう。何か、とても素敵な場所へ招待されたようだ。それが分かるが、実感がなく、そこへ飛びつきそうになる自分を必死に抑えていた。

私は、なぜか人から誘われることに慣れていない。元々インドアで過ごしていて、一日中家から出ないこともよくある。人込みは苦手だし、移動も苦手だ。だから、それを知っている人はほとんど私を旅行に誘わない。唯一の例外は恋人で、私が何度嫌だと言っても、旅行のプランを持ちかけてくる。しかしそれでも、妥協と交渉を積み重ね近くのスーパー銭湯に行ったりとか、一泊二日だとしても近場へ出かけるくらいだ。

私が旅行が苦手だと知っている人は、私を旅行に誘ってこない。苦手だと知っている人の中でも、算段がない人は旅行に誘ってこない。しかし、Kはおそらく私が旅行が苦手であったり、不慣れであると知っていながら「来いよ」と誘ってきたのである。その時の動揺はなかなか激しいものだった。

旅行が苦手な理由はいくつかある、でもそれは直接的な理由ではない。例えば人込みは嫌いだが、毎日満員電車の中2時間かけて大学に行く生活を4年間していた。渋谷にも行けるし、新宿も行ける、だから梅田に行くこともそこまで億劫ではない。長時間の移動も、4時間新幹線に座っていることができる。何なら寝られる。寝る場所が変わっても平気だ。新居に引っ越してきたあとは、布団を敷いてさっさと寝た。だから、人混みが嫌とか慣れない環境だと眠れないなんて、もっともらしい理由を説明するのだが、いざ振り返ってみると「あのときは平気だったじゃないか」と意外と丈夫な自分がそこにいるのである。

それでもやっぱり私は、旅行が苦手だ。恋人から誘われても、友人から誘われても、心臓がドキドキする。嬉しいのに、私はそこには入れないという気持ちだけが目の前にドンと現れる。一緒に行こうと言われると、一緒にはいけないと思っている自分が「早まるな!」と叫ぶ。

「ごめん、無理、行けない」

何度もそうして断ってきた。旅行に行く友人たちが羨ましかった。写真を撮って、お土産を買って、楽しいねって言い合える。でも私は、うまくその輪の中に入れない。一緒に楽しむというのが苦手で、例えば水族館なら、一匹の魚をずっと追いかけているほうが好きだ。ひれの形の違いを見ながら「これとこれはどう違うんだ」とスマホで調べて一つの水槽の前に長い時間いる。みんなと同じ時間で、同じものを見て、一緒に写真を撮るとき、私は大体全然別のところにいることが多い。だから私は楽しいけれど、みんなで一緒にいることも楽しみの中に入れている友人たちとしては私と過ごすのはあまり楽しくないのではないかと思う。せっかく誘ってくれたのに、私は自分のペースを崩せない。楽しんだり、驚いたりはするけれど、そのテンポが揃うことはめったにない。普通そんな風に揃うことはないんだから、自分のままでいればいいと、声をかけてもらったこともあるけれど、周囲の人は自分が思っているよりも「一緒に楽しむ」という力には長けている。

「見て見て」と言って指さしたものに、即座に反応できるのだ。私は「え、何? どれ?」から始まり、少し説明を受けないとわからない。でも、友人たちは「わぁ!」とすぐに反応できる。そしてすぐさまそれを背景に、写真を撮ることができるのだ。私からすれば魔法である。もうあらかじめ打ち合わせでもしてきたのか、取り決めがあるのか、阿吽の呼吸で「みんなで一緒に」ができるのだ。私はその「みんなで一緒」が、何度頑張ってもできない。おそらく、そもそも頑張ってやるものではないのだと思う。周囲に気を配って、ほかの人の見ているものをキャッチして「おぉ、すげぇ!」と見ることができるなら、私も一緒に楽しめるのではないかと思う。でも、今の私は致命的に、一緒に楽しむことに向いていないのだ。

それなのに、誘ってもらえた。私はもうそれだけで十分である。友人の中で、私は旅行に誘ってもいい人間で、一緒に過ごすにあたってとりあえず害はないというお墨付きをもらったのだ。もうそれ以上に望むものはない。できるなら、邪魔したくない。私の気になるものと、友人の気になるものは違う。そして、それを共有することに私は全然長けていない。

「見て見て」という友人。そこに駆け寄っていく、別の友人。なんて、楽しそうなのだろうと思う。そして、その一瞬の躊躇は、私を「友人のもとに駆け寄る」という動作から遠く遠く引き離す。ゆっくり歩いて、そっと遠くから見る。でも私に見えるのは、嬉しそうな友人の顔だけだ。

そして私は、また魚のヒレが鋭利な形と丸い扇型で何が違うのかを調べる作業に戻る。何を見て、喜んでいたのかわからない。ただ「うれしそうだ」ということと、私はそれを一緒に見ることはできなかったという気持ちだけが、じわじわ積み重なった。

でも、少し、期待してしまう。

「旅行しない?」と誘われたとき、今度は私も、同じものが一緒に見られるのではないかと思ってしまう。感覚や気持ちを共有して「ヤバイ」とか「ぱねぇ」とかだけで、友人の感じたものを全部理解できるくらいの距離まで近づけるのではないかと思ってしまう。そして、そうはならないことを、今ここで躊躇している自分が半分くらい証明している。

もう充分だ。私は充分ドキドキした。誘われた瞬間に「あぁ、もしかしたら、私と一緒に楽しめると思ったのかもしれないな」と感じられればもうそれだけで充分だ。

私は自分に失望したくない。友達をがっかりさせたくない。

「思ったより、楽しめなかったな」と、思ってしまうのではないかと考えるだけで、エンターテインメントは恐怖に変わる。

だから、どうか遠くで私の分からないものを見てほしい。純度の高い喜びと、頭が真っ白になるくらいの感動がきっとそこにあるだろう。そこにいちいちノイズの入る私は、その瞬間にノイズを挟みたくないから、遠くで、できるだけ遠くで、気配だけを感じていたい。

調べ物をしているときに、遠くで聞こえる友達の声みたいに、近くて遠くて、決して届かない距離が、嫌いだけどちょうどいい距離感なのだ。

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