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私を愛してくれる人。
「お風呂入りねぃ!」
と、妻が言う。私が布団にうずくまってからもう一度妻の方を見ると、眉毛をキリリッとさせてこちらを見て「入りねぇぃ!」と言った。そして、再びキリリッとさせている。妻のすごいところは、こうした要望を伝える際、一切の軋轢が生まれない表現ができるところである。
渋々お風呂に入って、スマホが防水なことに甘えて動画を見ていると妻がやってくる。風呂の扉が少し開き妻の顔が覗く。
「浸かっとるわぁ」
パァと、目と開き「わー」という口でこちらを見る。
何がそんなに面白いのだろうか。
私がまた動画へ顔を戻すと、どれどれと言いながら入ってきて洗顔料を泡立て始める。そして、モッコモコになった泡を手にこちらを見た。
私は今、動画を見ている。
妻は今、私を見ている。
「顔こっち向けて」
洗われる。間違いなく洗われる。犬ってこんな気持ちなのか。26歳にもなって、私は洗われるのだ。
拝啓お母様、お元気ですか。あなたが昔洗った顔を今は妻が洗っています。なぜだか妻が嬉々として取り組むアトラクションの一つとなっており、洗われるのは一度目ではありません。
シュワァァァァァ。
というような生活である。
荒廃しきったアラサーを妻がなんとかしている。
「髪、乾かしねぃ!」
キリリッ。
妻が正しい。妻が正しいことは解っているのだがしかし、その上で、どうしても眠いのだ。私が寝室へ向かおうとすると妻が胸を張って体で止めた。
「ムッ!」
キリリッ。
「今、私は、牧羊犬だから」
どうやら私は羊の方らしい。渋々ドライヤーを取り、ブォォと頭に風を当てると妻は、うんうん、と深く頷いた。私が眉間にグイッとシワを寄せると、妻はそれを打ち消すようにまた深く、うんうん、と頷く。そして、なぜかまたキリリッと私を見てから、うんうん、と頷いた。
我々は互いを大きな生き物として見ているのだが、共生関係というよりは依存関係になっている。もしこれが一時的なものだとするのなら、妻はお世話期だ。世にいう尽くすタイプの発展系であり、おそらくこの次は介護とかそういう領域だろう。私はこの、妻依存状態からなんとか脱却したいのだが、現在のところその目処は立っていない。
元々私は自分のことも含めて何もしないので、妻がしてくれていることのほうが圧倒的に多いのだがその差は広がるばかりである。どうしてこんなにも、私に優しくできるのか分からない。
むしろ、妻と接していると私に優しくできるポイントが結構あったのだとわかる。朝起きてから、寝るまでの間に、自分を労り、愛し、手間暇をかける。そのために何をすればいいのかというと、風呂に入り、顔を洗い、保湿して、髪を洗い、なんかオレンジ色のボトルの液体を地肌につかないように髪になじませ、それらを良く洗い流したら、今度は体を洗いすぎない程度に洗い、背中や耳の後ろまでしっかりと油分を落としてから、泡が残らないようにお湯で流し、湯船に浸かり、出るときは体を拭いてから、温かい服を着て、顔を保湿し、髪を乾かす。という工程を踏む。
長い。自分を大切にするというのは、長く、めんどくさい行為である。しかもこれを毎日やる。風呂だけではない。ご飯も、運動も、睡眠も、とにかく手間暇をかけてやる。そしてどれも適量があり、多すぎても少なすぎてもいけない。やるだけやればいいのではなく、適量を維持することが大切なのだ。
それはとても難しい。なにせこれまでやってきたことがないのだ。自分を大切にする方法を書いた本には何度か触れてきたが、もっと「深呼吸してみる」とか「自分の好きなことを考える」といったものが多かった。こんなに面倒で手間のかかる工程ばかりだとは聞いていない。
つまるところ母の言っていた「ご飯を食べたらお風呂に入って、歯を磨いて、早く寝る」というシンプルかつ面倒な指示をこなしていくことが結果的に自分を大切にすることへと繋がっていくらしい。そしてそれは時を経て、牧羊犬を演じる妻がキリリッとしながら言うようになった。
妻は私の横にひょこひょこやってきては「ねぃ!」と言って、キリリッとする。そして、私が言うことを聞くまで何度も根気強く、キリリッとするのだ。
なんでそこに力を入れているのかわからないが、しかし、妻の力を入れる部分は妥当であり、少なくとも私を物理的に動かそうとしたり大声を出すよりは間違いなく効果がある。それが、眉毛をキリリッとして私を見る行為だ。ちょっと足りないなと思うときは口を尖らせてから「ムッ」と言ってキリリッとする。
私はそれを何度か見せられると、次第に笑ってしまい渋々というポーズを見せて作業に取り掛かるのだ。そしてそれが終わると妻は、ひょこひょこ跳ねながら「サンキューサンキュー♪」と歌い始める。
私は妻が好きだ。
しかし、私にとって人を大切にするというのは関わらないことだった。干渉しないこと、あるままに任せることが、私の愛である。二人で暮らすということは、一人だったら絶対にしない失敗や諦めのつく出来事を二人で共有しなくてはならない。
私は常に、自分か妻が失業したときに備えていた。あるままでいられるように、お金を貯めて過ごした。今、妻は無職である。
そして私は、ギリギリなんとか妻を支えられる。急かしたり、背を押したりすることなく、ただ明日一日、もしくは半年、一年の間、妻の隣を歩くことが出来る。私の愛は、気が付かれないほうがいい愛である。そんな気苦労をしていると、知られないほうがいい。そうして負担をかけていると思われないほうが良い。ただ、共に生きているのだと伝われば良い。
しかし、実際どうだろう。私は引き続き、妻に支えられて生きている。家事の殆どを妻がやり、私の世話を妻がやり、一体、何を還元できているというのだろうか。情けない。
更に情けないのはこの体である。
頑張ってはいけないのだそうだ。眠れず、食えず、動けない日も、この世のどこにも自分の生きる意味を見いだせない日にも、頑張ってはならない。それが悲しくてたまらない日に、泣いてしまうこともある。
すると妻は「どうしたのぉ!?」と寄ってきて、やいのやいのとあやしてくれる。赤子をあやすように、さすりゆすり、そして、泣いている私を見て笑う。全く自分とは違う生き物が、私の横で生きている。
私も妻も、互いが悲しいときに一緒に悲しむことはできない。感情の起伏のポイントが、我々はかなりずれている。その代わりに、私達はそれぞれが互いの感情に対して責任を負わず、要望がない限りは自由にしていい。例えば「静かにしていて」と言われたり、予め伝えていない限りは、横で踊っていようが基本的にはスルーする。相手がうるせぇな、と思っていても、基本的には関係ない。うるせぇ時には、近くに行って「うるせぇ」と言うまでが互いに認められた権利であり、その後静かにするかどうかは相手に任される。
そして、離れていくこともまた、互いに止められはしないのだ。我々は今は一緒に過ごしているが、残念ながらいつか終わりが来ることはわかっている。何がどのような原因で終わりの引き金を引くのかはわからないが、私達の関係はいつか必ず終わる。
いつか「お風呂に入りねぃ!」と言われなくなり、一緒にご飯を食べたり、外へ出かけたり、無言で互いに好きなことをして過ごすだけの日々が来なくなる。そして、そんな日を目の前にしても私は頑張ってはいけない。
そして泣いていても「どうしたのぉ!?」と駆け寄ってくる人はもはやおらず、ただただ涙を流すしかなくなる日が必ず来るのだ。
それを想像するだけで悲しくてたまらなくなり、心にぽっかりと穴が空き、その先も生きていけるのだろうかと、不安でたまらなくなる。
依存だ。と、思う。
大地に体を横たえ、大きく息を吐き、自分の好きなところをいくつ見つけても埋まりそうにないほどに寄りかかっている。自分のことなのに、自分でやるには荷が重い。
朝、目が覚めたとき、また体が動かなかった。悲しくてたまらない。胃のあたりが気持ち悪くて、もう一歩背を押されたら吐きそうだった。
頭の中をグルグルと不安が襲う。
また仕事ができなくなるかもしれない。
なんだこの気持ち悪さは。
また妻に迷惑をかけるのか。
こんなに苦しいのに、頑張ってはいけない。
もがくと、もっと苦しくなる。
立つと気持ちが悪い。車酔いのような感覚に押しつぶされそうになった。
妻に付き添ってもらって病院へ行き、点滴を打ってもらっている間も妻はそこにいた。
一度、私は仕事へ行き、夜に帰ると妻はトマトやピザなど私の好きそうなものと体に良さそうなものを手広く揃えて待っていた。
「ピザ食べる?」
「ピザ食べる」
それから、プチトマトを冷蔵庫から出した。妻はトマトが嫌いなので、私しか食べない。もぐもぐと、それを手にとって食べる。
「本能が残っててよかった」
そう言って妻はまたニコニコしてから、「本能!」と言ってキリリッとした。おそらく深い意味はない。
ご飯を食べ、ゴミを捨てて、また家に戻ると妻は「お風呂入りねぃ!」と言った。私はやはり渋々、脱衣所へと歩みを進めた。
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