赤ペンで描くメッセージ
今年から塾の先生をしている。
毎日、たくさんの子供がかわりばんこにやってきて、私を「先生」と呼んでくれる。個別指導がほとんどなので、だいたい私は生徒の隣に座って「じゃあ、はじめましょうか。よろしくお願いします」と挨拶をする。
挨拶を交わすのは私のけじめである。これをしないと、先生という名前の魔力に捕まってしまいそうで、ちょっと怖いのだ。
あくまで私は人間、相手も人間。自分が主導する立場になると、人はすぐにこの前提をすっぽかすことを私は知っている。さらに、教えるとなればなおさらだ。本当に知らないうちに「俺がなんとかしないと!」とか「あぁ、ダメだ」とか思って余計な手出しをしまくることを知っている。
引きこもっている時の私は、この余計な手出しを散々受けて、結構ひねくれてしまった。心は一度ひねくれると捻じ曲げたハリガネのように真っ直ぐに伸ばしても完全に真っ直ぐにはならない。そして何より、私自身が隣に座る生徒さんに対して同じことをしてしまう可能性は大いにある。
私は「辛いことがあったから優しくできる」という言葉をまるっきり信じていない。辛いことがあったら、他の人にも自分の辛さをわかってもらいたくて仕方がなくなってしまうのが私なのだ。人から散々手出ししてきた私だからこそ「その辛さ、わかるぜ」と言って差し出した手が最悪の事態を引き起こす可能性だって大いにある。驕ったら危険、理解したと思った瞬間が最も危ういのだ。
そんな私のささやかな抵抗を見せるのが、赤ペンで丸をするときだ。プリントをもらう時は「丸していい?」「ここに書いていい?」と聞いたり「採点しまーす」と宣言した後、了解を取ってからプリントを触る。
私が干渉する場所やタイミングは、体を動かす前に伝えるように意識している。本当に細かいことなのだが、しかし生徒さんにしてみればただでさえ緊張している状況で、いつ手が伸びてくるかわからない、というのはかなり怖いだろう。
だって、私も怖い。22歳が怖いのに、小学生や中学生はもしかしたら怖いとさえ思わず、そういうもんだと刷り込まれて、私の目を気にしながら勉強することになるかもしれない。
やだーーー!!!
そんな先生になりたくなああああい!!
という、ささやかな抵抗だ。
赤ペンというのは、時に絶大な権力を誇る。正しいか間違っているかが、赤ペンによって決められると思いこむこともある。大きく丸をされたら本当に嬉しそうに見せてくれる子がいる。テストの一個だけついたバツを見て「だめだったんだ」という子もいる。
赤ペンは普通のペンではない。このペンの真っ赤なインクが放つメッセージは子どもの心にびっくりするくらい強い影響力を発揮してしまうことがある。大きな丸も、小さなバッテンも、その子の記憶からすっぱり消えてしまったあとでも、勉強への印象の一部として残ってしまう。
これは内緒なのだが、私はまだ塾で一度もバツを付けたことがない。もちろん間違った回答をしてくる子はいる、そういう時はバツの代わりにハテナマークをつける。
「ここ、もっかい考えてみようか」という言葉とともに、プリントを返す。「テキストの答えと違っているので、もう少し一緒に考えてみようぜ」のマークである。「間違い」ではない。「まだ正解ではない」というメッセージを贈る。届いているかはわからない。バツマークの類似品と思われているかもしれない。でも、赤ペンのメッセージは結構よく届くのだから「もう少し、一緒に頑張りませんか」という気持ちも、しっかり届いてほしいと密かに願っている。
ーーー
本日のテーマ 赤ペン
ここまで読んでいただいてありがとうございました。 感想なども、お待ちしています。SNSでシェアしていただけると、大変嬉しいです。