手が止まるまで、飽きるまで
久しぶりに勉強している。
B5のノートを開いて、本を開いて、スマホを手元に置く。
では、気が済むまでどうぞ、レディー、ゴー!
本の内容の中で気になったところを書き写し、解らない単語をスマホで調べる。全く知らない知識が、自分の知っている知識につながるまでひたすら追いかけた。例えば英語は語源を追いかけるのが好きだ。どんなに未知の単語でも、絶対に自分の知っているものにたどり着く。こんな風に、手に当たったものや見たものをひたすら追いかけながら、勉強をしている。
気が済むまで、という単位で行動することが時々ある。ゴールもよく分からず、正直どこまで進めば良いのかもわからないので、一旦やってみて飽きるまで止まらずにやってみる。そして「あ、もういいや」と思うまでが一区切りである。
エッセイも、ラジオも、飽きるまで、一気にやりきることを目標にしている。
こういうことは、本当にひっそりやったほうがいい。他の人から期待される目を感じるととたんに緊張してしまう。
どうして他人の期待というのはこう、全く知らぬ間にスルッと入ってきて自分のやりたくない方向へ引っ張っていってしまうのだろう。しかも、多分こういう感じで期待しているだろうと私が思うことは大概は的外れだ。なんなら「こういう感じでお願いします」と注文を受けて作るものも大概は期待外れだ。言われたとおりにやることが、全然出来ない。
それはもう本当にコンプレックスで、何で言われたとおりにちゃんとできないんだろうと日々悩んでいる。何かを期待されて作るよりも、全く本当に何にも見向きもされないようなことをひたすらするほうが好きだ。
Youtubeが盛り上がっているときにラジオとかしたくなるし、Web小説でデビューしよう! とかやってるときに私がやっているのはエッセイである。
なんでそっち? という質問が来るどころかそもそも注目されない。比較もされない。
一度見られてしまうと、その目線がやっぱり気になってしまう。
「終わりの目安は気が済むまで、では、レディー・ゴー!」は、人の視線から逃れるためのものでもある。自分が納得することを落とし所にすると、すごく安心できる。
しかしそれは逆に、誰かの注文や要求した水準を全然満たせないということにほかならない。私にとっては、自分が決めたことを自分が納得する内容で自分が作れるということが最高の贅沢なのだ。
自分のためにやったことが、たまたま誰かの役に立った。そのくらいの距離感のことが、私はすごく気持ちいい。
扱いにくいなぁ、と、我ながら思う。私だって、私を扱いづらい。気が向くまでは、何もしない。何か始めても、全然予定通りに進みやしない。自分にとって利益があるなんて到底思えない。
でも、終わったとき、なんかまぁ結果的に良かったな。と、思ってくれた人が、私の周りには集まってくれているような気がする。
みんなギャンブラーだ。
いつ飽きるかも分からない。お金のためにも動かないし、褒められたって動かない。外から与えられる明確なモチベーションが全く不明な生物を隣に置きながら「飽きるまでやろうぜ」と一緒に走ってくれる人たちに囲まれて、私は今日もノートに向かっている。
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