あだち充『タッチ』 最終話を18日かけて読んで改めて考えたこと
このnoteにはネタバレを含みます。ご注意下さい。
サンデーうぇぶりというマンガアプリをスマホに入れている。
そもそもは昨年の夏にあだち充の作品が一部無料化された、という広告が流れてきて、久しぶりに読んでみるか、となったのがきっかけだった。その後「あだち勉物語」(ありま猛)という連載作品を好んで読んでいたのだがそれも終了。
この8月1日から、こんな企画が始まった。
「毎日あだち充」とはあだち充の作品の中から印象的なシーンを含む1ページを365日間にわたって毎日紹介していく、という空前絶後の企画である(「週刊あだち充」はあだち充の名作短編が毎週日曜日にアップされるという予想の範疇の企画である)。
「毎日あだち充」。名セリフ・名シーンの多い氏の作品とその量からすれば企画の成功はたやすいかと思われたが、前後を切り取って特定の1ページだけを凝縮して見せる、というやり方は(一応作品内の季節と現実の季節も合わされているようで、夏には夏の名シーン、秋には秋の名シーンが採用されている)、何をどの程度どうやって取り上げるかという点においてなかなか苦労も多そうだと推察された。60日目も超えた10月あたりからは連続する数ページが数日間にわたって取り上げられたり、「コレって名シーンか?」とあだち充ファンの私でも思うような1ページが取り上げられたりするなど、一部ファンを困惑させる事態も発生していた、と思える。
そして先月の13日からは、「『タッチ』の最終回18ページ分を18日間にわたって毎日取り上げる」というシリーズが始まったのである。
コメント欄は多少荒れていた(と言っても毎日数十件程度のコメント量だけど…)。
「連続ページを上げるのは企画の趣旨に反する」
「もうネタ切れだ」
「タッチは飽きた、もういい」
「今日はタイトルページだけで終わりかよ」
「毎日連続するページが紹介されるなら普通に読んでるのと変わらん」
等々。
私が『タッチ』最終回を読んだのは小学6年生か中学1年生の頃、連載されていた少年サンデーを読んだのでも単行本を読んだのでもなく、小学館から新たに出されたワイド版全11巻の第11巻を読んでのことであった。時は1990年代である。10巻の最後のページが上杉達也の須見工戦でのホームスチール成功の描写で終わっていたことは記憶に新しく、それが手元にない今でも孝太郎の驚いた顔が鮮明に蘇ってくる。
10巻を読み終わって、11巻が最終巻らしいということも認知していた私は、須見工戦の続きが気になると共に、あと1巻分でどのようなエンディングに到達するのであろうという点も気になってしょうがなかった。すぐにでも買って読みたかったのだが、なぜか当時、近くの本屋や少し離れた大き目の書店、どこを探してもなかなか11巻にお目にかかれなかった。それで、随分長いことお預けを食っていたのである。これが10巻の最終コマをよく覚えている理由に他ならない。
「須見工戦の結末はどうなるのか」
「もし甲子園に行ったら、どこまで勝ち進むのか」
「最終的な結末、達也と南の関係はどうなる?」
そういう子どもらしい期待と結末への希求を持って、今から思えば少なくとも数カ月はじれったい時間を過ごしていただろうか。インターネットなども普及していなかった当時、本を注文して取り寄せるといった発想もそれほどない子ども時代、私はひたすら本屋の書架に偶然それを見つける機会を待ち続けた。それは現在の価値観からすれば非効率のようでもあるが、現代が失ってしまった気持ちの有りようを体現するものでもあったように思える。
さて、そうしてようやく手に入れた11巻は、当時の私にはなかなか理解しがたい展開を見せてくれた。
須見工戦がめでたしめでたしで終わったのはいいとして、甲子園大会は一向に始まりそうにない、なんかよくわからないアイドルが出てくる、達也はそちらに惹かれているのか? そうこうしているうちにあの「よびだしベル」の巻が終わって、あっさりとその最終話はやってきてしまったのである。えっもう次で終わりなの???
私が小学生時代までに読んでいた野球マンガと言えば、「大甲子園」(水島新司)、「名門!第三野球部」(むつ利之)の二つが代表であった。
『タッチ』が野球主体の作品と言えるかどうかはここでは措くが、この二作にも現れている通り、野球マンガは甲子園での熱闘をこれでもかというほど描いてこそ、という価値観は私も存分に持ち合わせており、折角面白い甲子園編が生まれそうなところでその試合描写も全くなく最終話に到達した、というのは子ども心に衝撃的な展開であった。
これまで長きにわたって楽しんできた作品があと1話で終わってしまう。ここからは1ページ1ページを丁寧に読まなければ…!
当時の私はすごい緊張感で紙を繰っていたと思う。突如として現れる重みのあるセリフやあっと驚く急展開にも対応できるように。
しかしそういったセリフやシーンは最終話にも皆無であり、何気ない描写の積み重ねであっという間にページが進んでいく。(何せあだち充のマンガは余白と表情で読ませる、という水墨画のような世界観なのである。何も考えずに読んでいるとすぐに1巻が終わっていくのです!)
そして、もう、あと1枚めくると最終ページだ!
えっ本当に??
こんなに何も起こらない最終話ってあるの?
というか最終ページに何を描いたら今までの全話がまとまるのだ??
マンガは勿論のこと、映画やドラマや小説のラストシーンにも立ち合った経験の少なかった当時の私は、乏しいなりの経験と知識をもって、そんな感覚を抱きながら最終ページをめくったと思う。
そしてそこにあった最終ページには。
ほぼ人物やセリフは描かれてはいなかった。最終コマには、確かに最終コマにふさわしいと言えそうなものが描かれてはいる。しかしそれは、これまでの自分が持っていた野球マンガの通念からすれば物足りない、いやしかし、それがこの最終話に至るまでの登場人物達の活躍を雄弁に物語ってもいる、一方で最後のコマをこれで済ませるのはご都合主義とも言えそうだ、だがそれでも否応ない説得力を持って佇んでいるとも感じる、そんな「無生物」が、最終コマには、描かれていた。
また、何も描かれていなかったように感じた最終回ではあったが、1コマ1コマには確かに最終回としての意味があり効果的な構成がなされている。少ないセリフもまたしかりだ。最終ページも、ほぼ人物やセリフは描かれていないのだが、唯一描かれている人物はこの作品最大のキーパーソン。描かれている場所にも意味があり、そのキーパーソンが最終コマの「モノ」を見守ってでもいるかのような演出。深遠な人間ドラマと言うべき『タッチ』全編を締めくくるのにふさわしい絶妙なバランスを保った最終回が、よく考えてみれば、確かに実現されているのである。
それで、全て終わりだった。
このページを読んだ際にはいつも特定の感覚が残る。そしてそれは、少年時代に初めて読んだときから、大人になって読み返す現在まで、変わることはない。特に、『タッチ』の全巻を、第1話「タッちゃんとカッちゃんの巻」から始まって、最終話の「その後、おかわりはの巻」に至るまでを(一晩で、とは言わないまでも)短い期間で読み通し、その世界観に浸りきった上で到達する最終ページ読後の感覚は、変わることがない。
それは、いい歳になった今でも、少年時代に感じた、あの、興奮ににた感傷というか、単純な感動とも満足とも異なるような、体の根幹を震わす形容しがたい感覚のうごめきを自分の中に感じることで、青春を謳う自分のみずみずしい感覚がまだ完全に腐りきってはいないということを確認する。
そんな魅力が、『タッチ』の最終話を読むことにはあるのだ。
ごく単純な言葉で言えば、「彼らの物語はここで終わりを迎えた、しかし彼らの物語はこれからも続いていく」という感じ。フィクションでありながらこういう感覚を味わえるマンガは、私が読んだ多くの作品の中でも『タッチ』が随一であると思われる。私はこれまでに何度この最終回を読んだことだろうか。
また、この「毎日あだち充」の企画には、毎日上げられる1ページに「解説」がついているのだが、週刊少年サンデー編集長も務めた市原氏の最終ページへの解説が、以下のようなものであった。
自分と類似した体験をしている人がここにもいたのだ。
氏が感じた「喪失感」が読む度に私も感じているのと同じようなものかどうか定かではないが、連載終了から10年ほど遅れて私がワイド版を読んで感じていたそれを、リアルタイムの連載で感じていた先輩を発見したことが、非常に印象的であった。
ある一つの作品を、時を超え・時代を経て、読み解いた異なる人間が、それについて似たような感想や感覚を抱く。マンガを含めて、読書という体験が持つ神秘性といったものを改めて感じた18日目にもなった。
ここまで読んで下さった方は、既に『タッチ』ファンの方かもしれませんが、もしかしたらそうでない方もいらっしゃるかもしれませんので、最後に言っておきましょう。
『タッチ』、名作です。おススメします。
私はこの作品によってマンガの面白さや可能性だけにとどまらず、広く「読む」という行為の奥深さまで教えてもらったと、決して大袈裟ではなく、そのように思っています。その後の数多の漫画、および活字の体験への入り口まで開いてくれた。そんな、思春期のドアの前に立っていた私の、文学への案内人でもある存在。
私にとっての恩人、と臆せず言える作品があだち充の『タッチ』です。
追記 18日目のうぇぶりのコメント欄は、1日目よりは少し落ち着いていたように思います。