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白い犬の恐怖
「犬のゾンビ?」
アリスが聞き返すと、モーキーはしどろもどろによくわからないと答えた。最初の説明ではルナシティの第一坑にはゾンビがいて、それは犬なのだということだった。なぜ人間ではないのか不思議に思い尋ねると、さまざまな噂を聞き齧っただけでまともな話はなにひとつない。
「つまり第一坑には何かよくわからない連中が潜んでいるということね」
「まあ、そういうことかな」
モーキーはグラスを傾けながら視線を微妙にそらした。
アリスが探している夢郎の情報を掴んだのは最近だった。トンネル掘りを趣味にしているモーキーが、廃墟になっている第一坑から奥に伸びるトンネルがあることを教えてくれた。今まで探した限りではルナシティに夢郎の影はない。いくら乳児の姿とはいえ噂のひとつもないというのはおかしな話だ。
確かに今はルナ解放戦線とアフリカの風が覇権を争う不安定な状況だ。そんな中で得体のしれな夢郎の行方を気に掛ける市民は少ない。仕方のない状況とも言える。
そもそも夢郎が何者で何を企んでいるのかを知るものは少ない。アリスも夢郎の悪事の全貌を掴んではいないが、政府アシストコンピューターであるアテナスの、人類進化計画と称する得体の知れない計画に加担していた。その後アテナスを裏切ってHuman+の設計図を持ってこの月に逃亡していた。
地球との交信手段が無くなった今、一体どれだけの人々の意識が一時保存用のサーバ衛星ジュノーに転送されているのか知る由もない。きっと地上には意識を抜かれ抜け殻となった肉体がごろごろしているはずで、野生動物の格好の餌になっているだろう。
そしてとっくに量産されているはずのHuman+、つまりジュノーに集められた意識が入る新しいボディは全く製造されていない。人々の意識はジュノーに囚われたままだ。
どこまでがアテナスのシナリオで、どこからが夢郎の野望なのかは分からない。この事態もアテナスの想定内なのかもしれないが、最悪のシナリオに違いない。夢郎を捕まえれば、人々の意識を肉体に戻せるかもしれないし、悪くてもHuman+というボディを手にすることはできる。
「とにかく、手がかりがあるなら行ってみなきゃ」
モーキーはげんなりした顔をして、えらいことに首を突っ込んでしまったとぼやいた。
翌朝、日の出と同時に二人は第一坑に向かった。直接つながる坑道はないから、地図に載っていない坑道を経由し、ところどころ新しい坑道をモーキーの掘削マシンで掘りながら進んだ。モーキーの掘削マシンの性能は素晴らしく、昼前には第一坑に辿り着いた。
掘削マシンは中層のかつて商店だっただろうブースの壁を打ち崩して侵入し、穴全体を見渡せるフェンス直前で停止した。その先には地下十層まで続く大きな縦坑だ。第一坑は当時一千人ほどの人が暮らした小さな坑だ。商業区や居住区は明確に別れておらず、地下十階層しかない。とりあえず生活基盤を作り上げたという感じで雑多な印象だ。今では物音ひとつしないが、当時は活気あふれる坑であっただろうと想像できる。上部を覆うドームから太陽光が入るようになっているが、無人で雑多な街はそこここに暗がりを抱え込み、ここが廃墟であることを一層感じさせた。
「本当に行くのかい?」
「そのために来たんでしょ」
モーキーがこれ見よがしにため息を吐く。
「例の坑道は一番下の層って話だ」
アリスは階段を見つけて降り始めたが、モーキーがついてこない。
「俺はここに残っていてもいいかな」
「いいわよ。ただ、掘削マシンはロックしたから私がいないと動かないわよ」
モーキーはなんでだとばかりに両手を広げると、アリスの後を追って降りて来た。
数分で最下層まで辿り着いた。最下層には地下に伸びるポンプとバスケットコートが一面あった。ただ、低重力に対応するためリングはかなり高い位置にあり、かつ規定より小さい。一体ここでどんな試合が繰り広げられていたのだろうと想像していると、背後で物の落ちる音がした。
「おい、なんだ今の音は」
モーキーが怯えてライトを向けるが何もない。
別の方向から何かの唸り声がする。
「何かいるみたいね。犬かしら」
「だから俺は来たくないと言ったんだ」
「誰かいるの?」
アリスが大きな声を出すとモーキーが嫌な顔をした。
辺りを見回していると背後から工具が飛んできた。アリスは咄嗟にそれを避け、投げられた方向にジャンプする。背後で工具がモーキーのヘルメットを直撃する音がしたがたいしたことはないだろう。
壁際まで一気に飛んで寄ると、通路を何かが駆けていくのが見えた。
「待って」
アリスがそれを追いかけようとした時、悲鳴が上がった。
そして低い唸り声。
「助けてくれ」
モーキーが黒い影に足を掴まれ、暗がりに引き込まれそうになっている。
アリスはそちらに駆け出すと、その勢いのまま黒い影にタックルをかました。
黒い影はうめき声を上げながら暗がりに転がった。
だが、転がった先には待ち構えていたように無数の黒い影がうごめいていた。
「なんだあいつらは。早く逃げよう」
「あなたたちは何者? 何で私たちを襲うの?」
暗がりから獣のような唸り声が聞こえた。
やがて黒い影が日の光の下に歩み出て来た。その姿を見たアリスたちは息を呑んだ。二本の足で立っていた。
それは人の姿をしているが人ではなかった。もちろんアンドロイドでもない。全身真っ白でほとんど骨と皮だけだ。その白い姿はまるで骸骨のようである。かつて見たことがあるその姿。
「ゾンビだわ」
「おい、嘘だろ。ちょっとイメージが違うけど」
「彼らはゾンビウィルスに感染したのよ。感染すると全身の細胞が変化してゾンビ化するのよ。ウィルスはアテナスが開発したもの。肉体改造することで人類を進化させようとしたけど」
「失敗したって訳か。相手がゾンビならどうすればいいかは分かってる。こうして頭を潰せば」
モーキーは手近にあったパイプを掴むとフルスイングで頭に叩きつけた。だがパイプはものの見事に跳ね返された。
「細胞はグルフェンとポリマー繊維に変わるの。とても頑丈だから気をつけて」
「先に言ってくれ。それでどうするつもりだよ」
アリスは背負っていた斬霊剣を抜いた。
「繊維っていうのは縦には簡単に裂けるものなのよ」
そう言って一気に頭から切り下ろした。
ゾンビは縦に真っ二つに切り裂かれて倒れた。この隙に逃げ出そうとしたアリスたちだったが、事態は思ったより深刻だった。倒れたゾンビの切り口が再生し始めていた。切り口からぶくぶくと泡が噴き出し始め、その泡が元の身体を形作っているのだ。左右に切り裂かれた身体それぞれで再生しているので、一体ゾンビが増えることになる。
「やだ。前に見たやつより進化してる」
「二人になっちまったじゃないか。どうするんだよ」
「先ずは逃げましょう」
ところが二人はすっかり他のゾンビたちに囲まれてしまった。全部で二十体はいるだろう。アリス一人なら何とかなるだろうが、モーキーを守りながらだとかなり厳しい。
ゾンビたちは徐々にその包囲網を狭めている。ゆらゆらと揺れながら白く細い腕を突き出しアリスたちに向かって来た。
一か八か行くしかない。アリスが身構えた時だった。
「止まれ」
頭上から声が響き渡った。
するとアリスたちを取り囲んでいたゾンビの動きが一斉に止まった。
見上げると上階層に誰か立っていた。暗くてはっきりとは見えないが体の大きな男のようだ。
「誰?」
「俺はコーネル。こいつらの監督者だ」
「監督者? この人たちをゾンビに変えて何をしようというの」
コーネルが大声で笑った。
「こいつらは元々犬だ。人なんて大層な連中じゃない。だから俺はホワイトドッグと呼んでいる」
犬とはどういうことなのか。アリスはモーキーを見た。モーキーいわく極刑を言い渡された罪人を犬と呼びルナシティから追放する。追放された罪人は酸素が切れて死ぬことになるが、その前にここに辿り着いて生き延びたのだろう。それをコーネルがゾンビに改造した。
「随分と傲慢ね。だいたい誰の差金だか見当がつく。あなたアテナスの仲間でしょう」
「そうさ」
コーネルが前に歩み出た。光にさらされたその姿もまた異形だった。全身を黒い毛で覆われ、力強い顎が前に突き出している。人間のように直立したチンパンジーだ。ただし額は異常なほど広く大きな頭脳を持っているのがわかる。
「なんだあいつは」
「アテナスが作っているポストヒューマンよ。彼がここにいるということは、ルナシティの住人を殲滅させる計画が進んでいるということね」
「殲滅ってどうやって」
周りを取り囲むゾンビを見てモーキーが震え上がった。
「いやだ。あんなふうになりたくない」
アリスはコーネルに聞いた。
「あなた、ここへどうやって来たの?」
「ロケットさ。俺は月に降り立った最初の猿だ。英雄さ」
誇らしげに胸を反らす。見事な大胸筋だ。
「仕事が済んだらロケットで地球に帰るのかしら」
「ロケットを奪おうって腹か。そうはいかない。帰りの燃料はない。仕事が終わったらここの輸送船を奪って帰る」
「あなた何も知らないの? ここにはもう飛べる船は一つもないわ。最後の輸送船がパラボラアンテナを壊してしまったから、地球との交信も途絶えてる。あなたアテナスに見捨てられたのよ」
「ふざけるな。そんなことある筈がない。俺は英雄なんだ。英雄を見捨てるはずがない」
「ルナ解放戦線って知っているでしょう。彼らはルナシティを独立国家にしようとしている。アテナスにもらったと言っていたわ。あなたの計画は失敗したとでも思われたのじゃないかしら」
コーネルの顔が険しくなった。
「そしてルナ解放戦線に抵抗しているのがアフリカの風で、彼らは夢郎を担ぎあげている。だから夢郎を見つければきっと地球に戻る手段がわかるはずよ」
「その夢郎ってやつはどこにいる」
「私たちも探してここまで来たの。どうかしら、ここはひとつ協力しない?」
コーネルが腕を組んで考え始めた。
「よし、分かった。先ずは夢郎に話を聞く。お前たちをどうするかはそれから決める」
首の皮一枚で助かった。そう思った時だった。
「男を捕まえろ」
逃げるより早くモーキーが取り押さえられてしまった。人質を取られた格好だ。これでは手も足も出ない。
「さあ、女アンドロイド。お前は夢郎まで俺を案内しろ」
「その必要はありませんよ」
暗がりから一体のロボットが現れた。胴部がやたら大きく透明なケースになっていて、その中に乳児が座っている。夢郎の育児ロボットだ。自らやってきたようだが理由がわからなかった。
「私が夢郎です」
「赤ん坊じゃないか」
「姿に惑わされないで。彼は老獪よ」
夢郎がくつくつと笑う。
「それで私に何を聞きたいのですか」
コーネルが上階層から降りて来て夢郎の前に立った。手には銃を持っている。
「地球への帰り方を教えろ。輸送船を持っているのだろう」
再び夢郎がくつくつと笑う。
「そんなものはありませんよ」
「嘘をつけ。死にたいのか?」
コーネルが銃を向ける。
「一生月にいるつもりじゃないだろう。言え」
夢郎が人差し指で上を指し示した。
「私は上の次元を通れるのでね。他の人たちは皆サーバ衛星のジュノーに入ってもらおうと思っています」
そしてコーネルを上から下まで眺める。
「あなたはちょっと特殊ですが、意識だけになってしまえば同じでしょう」
「なんだと。馬鹿にするな」
コーネルがいきなり発砲した。三発の電磁パルス弾が保育ケースに穴を開け夢郎の小さな身体を引き裂いた。
育児ロボットが肩をすくめる。そして補修テープで穴を塞いだ。次の瞬間引き裂かれた夢郎を押し退けて、もう一人の夢郎がどこからともなく現れた。夢郎が血まみれの死体を押し退けると、死体はまるで穴にでも落ちるかのように消えてしまった。
「どうなってる?」
「撃っても無駄よ。それよりここへ何しに来たの? 撃たれるためってこともないのでしょう」
「そう。そろそろ計画を進めようと思いましてね。コーネル君といいましたか。彼らを育ててもらって君には感謝します。でも、ちょっと熟成が足りないですね。たしかにこれではホワイトドッグだ」
そう言ってくつくつ笑う。
意味がわからないという仕草をするコーネル。
「ホワイトドッグというのは熟成が足りないという蔑称よ。元々はバッファロートレース蒸溜所で蒸留されたウィスキーのニューメイクのこと。未熟成だから味がしっかりしていないのは当たり前。深読みすればできそこないということ」
「なんだと」
コーネルが再び銃を向けた時だった。周りを取り囲んでいるホワイトドッグが一斉にコーネルに襲いかかった。
コーネルはその怪力で数体を投げ飛ばしたが、十数体にのし掛かられて取り押さえられてしまった。
「彼らには制御チップを入れてあってね。君もまたホワイトドッグの一人だったという訳だ」
コーネルは夢郎の指示で奥に引き摺られていった。処刑されたのか閉じ込められたのかはわからない。
「さて、私は自分の仕事をします。アリス。あなたはどうせ手も足も出ないのだからゆっくり見学でもしていてください」
育児ロボットが先頭に立ち階層を上に登っていく。どうするつもりなのかと思ったら、歩いてルナシティまで行くつもりらしい。ホワイトドッグは新素材のボディを持っている。頭部に脳はなく意識転送したチップがあるだけ。酸素は必要ない。ゆっくりルナシティまで歩き、中にはいってウィルスをばら撒くだけだ。
育児ロボットとホワイトドッグはエアロックに入ると減圧を始めた。
アリスはそのチャンスを逃さなかった。別のエアロックから外に出て外側の扉の前で待ち構えていた。育児ロボットが出て来た瞬間に胴部に拳をめり込ませすぐに引き抜くいた。
大きな穴から酸素が一瞬で噴き出した。酸素がなくなり夢郎は窒息死した。だがすぐに次の夢郎が現れた。
だが、酸素はない。現れた夢郎もまたすぐに窒息死した。
次の夢郎が現れたがまた窒息死した。堂々巡りである。
「あなたこそとんだホワイトドッグね」
育児ロボットが穴を塞ごうとするが大きすぎて塞がらなかった。次に外扉を閉めようと前に出たところでアリスの拳をまともに受けて動かなくなった。
アリスは外側のエアロックを閉めてロックした。内側はモーキーがロックしているはずだ。これでホワイトドッグはここに閉じ込めることができる。今できることはこれだけだ。
モーキーの掘削マシンに戻ると後退しながら穴を塞いでいく。穴伝いにやってこられても困る。コーネルがどうなったかは知らない。生きていたとしても放っておけばいいと思う。友達になれそうにもないから。移動する掘削マシンに揺られながらアリスは無性にウィスキーを飲みたくなった。もし機会があったら、バッファロートレースの『ホワイト・ドッグ マッシュ#1』を電子版を仕入れようと思った。
終
『ホワイト・ドッグ マッシュ#1』はバッファロートレース蒸溜所で生産されるニューメイク、つまり蒸留したてのウィスキーです。ニューメイクは樽熟成前のため、琥珀色に色づいておらず無色透明でウィスキーというよりジンとかウォッカに見えますが、立派なウィスキーです。ウィスキーの味を決めるのに樽熟成は欠かせませんが、それまでの製造工程にも味を左右する工程はたくさんあり、出来上がったばかりのニューメイクもまた蒸溜所それぞれの味わいがあるそうです。この『ホワイト・ドッグ マッシュ#1』を樽熟成させたものが『サゼラック・ライ』というライ・ウィスキーになるのだそうです。それぞれ飲み比べてみるとおもしろいかもしれません。
さて、今回のお話では直接ウィスキーを飲まず「ホワイトドッグ」という言葉を物語のキーにしています。話の中で「ホワイトドッグ」はできそこないと言っていますが、本当にそこまで強い意味があるのかどうかはわかりません。ただ、実際にはウィスキー業界の一部では「まだできあがっていないウィスキー」といったニュアンスは持っているようです。実際どんなニュアンスなのかは使っている人たちに聞かないとわからないので、その辺で使ってみるというのはよしたほうがいいと思います。