バックアップ

 アリスはタントラを唱えながら斬霊剣を水平に構えた。足元に広がる黒い染みからは悲しみと苦しみが伝わってきた。栓の空いたウィスキーボトルは四分の一ほど減っていた。スタッグジュニア。65度近い高級バーボンでパンチのある香りが特徴だ。きっと旅立つ前に飲んだのだろう。貴腐ワインに比べたら随分と強い酒を選んだものだが、それくらいの気持ちが必要だったということだ。その想いは確かに部屋に残っている。アリスは斬霊剣を振り抜いた。

 キャッシーが店にやって来たのは日も傾き始めた頃だった。普段の彼女であれば、多くの男がその長い黒髪とサファイヤのような青い瞳に恋したかもしれない。だが、疲れ果てた今の彼女にそれを望むべくもない。キャッシーはカウンター席に着くと、貴腐ワインのトカイアスー・5プットニョスを注文いした。無理に作った笑顔が痛々しかった。

 いつしか居付いてしまったグレイハウンドが、慰めるつもりなのか、キャッシーの脇に座ってしきりに鼻を押し付けていた。

 ここは政府管理外地区にある小さな無人島。アンドロイドのアリスが営むビーチバーである。政府管理外地区にあるせいで客はあまり来ない。たまに来る客は政府と関わり合いになりたくない連中ばかりで、そういった客は厄介事を連れて来る。

「貴腐ワインはその甘味がとてもフォアグラと合うんですよ」

「あら、美味しそうね。でもそういったお楽しみは、ゆっくり飲めるようになってからにするわ」

「お忙しいのですか?」

 アリスの問いかけにキャッシーの顔が曇った。

「相談に乗って欲しいの」

「相談ですか。私はただのバーテンなので、限度がありますけど」

「あなたはどんな相談でも乗ってくれるって聞いてきたわ。お礼ならするわ」

 誰に何を聞いたのかわからないが、厄介事であることに違いはなさそうだ。

「実は私、命を狙われているの。そして、私の命を狙っているのは私自身なのよ」

 シェリーの属するハイレイヤーでは今、意識データをクラウドにバックアップするのが流行っていた。定期的にバックアップを取っておけば、不慮の事故で亡くなった時に、アンドロイドへのバックアップ転送で復活することができる。厳密にはそれはデータであり亡くなった人と同一ではないが、性格も記憶も同じであれば対外的には何の支障もないため本人と認知できる。

 そしてバックアップのもう一つの利用方法に、ひどく落ち込んだ時に過去の幸せだったバックアップを上書きし、記憶だけ追加することで常に幸せな気持ちを維持できる。そのため毎朝幸せだった時のバックアップを上書きして一日を始める人すら出てきていた。キャッシーもその一人である。

 ただ、定期的にバックアップを取ると、精神的に最悪の状態のバックアップも残ることになる。それらは使用しなければよいのだが、不慮の事故を考えれば取らない訳にもいかない。

「その、最悪のバックアップがあなたの命を狙っているというのですか?」

「ええ。私を殺して自分が本人に成り代わるつもりなのです」

「なぜ、そうだとわかるのですか。気のせいということはないのですか」

「その頃、私は本当に人を殺しかねない精神状態だった。私の事は私が一番わかるわ」

 それにしてもわからないことがある。通常バックアップというのは、意識といえどただのデータである。データが殺人を計画できるとは思えない。それをキャッシーに尋ねると、誰かは分からないが最悪のバックアップにアバターを与えた人物がいるとのことだった。アバターはネット内の肉体と同じだ。意識データを乗せれば人として活動ができる。

「警察には行ってみたのですか?」

 キャッシーが鼻で笑う。

「自分に殺されるって言って誰が信じるの?」

 それもそうである。問題は誰がアバターを与えたかであるが、今は計画を阻止することが先決である。

「それでどうするおつもりですか?」

「私自身相手にどう対処すればいいっていうの? だから、これからどうすればいいのかあなたに決めてもらいたいの。私以外の誰かが決めたことなら彼女には分からないはずよ」

 冗談ではない。アリスは頭を振った。他人の運命を決めるようなことをしていいはずがない。

 アリスが断固として断ったため、キャッシーは途方に暮れてしまった。

「私どうすればいいの? このまま殺されるのを待てと」

 アリスはマイクロ秒考えてひとつの計画を思いついた。方法はそれしかない。だが結末は最良とは言えない。とても口にすることはできない。

「何も方法はないの? 」

「方法がない訳ではないです。でも、それを教えることはできません」

「なぜ? こんなに困っているのに、助けてくれないの?」

「倫理に反します」

 どこで聞いてきたのか、キャッシーは意地悪く言った。

「あなたは魂を斬る刀を持っているそうじゃない。それって倫理に反しているんじゃないかしら。おかしいじゃない」

「斬霊剣は魂を斬る訳ではないのです。個人の持つエネルギー場というものを斬るのです」

「そのエネルギー場っていうのは魂じゃないの?」

「人が持つエネルギーであり、影響力とか雰囲気とかそういった個性でもあります。それに非常に強い想いで肉体以外の場所に残ってしまうこともあります」

「それは幽霊っていうことかしら」

「そう呼ぶ人もいます。いずれにしても斬霊剣でバックアップデータを斬ることはできません」

「御託はもうたくさん」

 キャッシーが叫んだ。

「方法があるのなら言いなさい。あなたは機械。私は人間。機械は人間を助ける義務がある。このまま私が死んだら、それはあなたのせいよ。もし言わないのなら、私はどんな手を使ってでもあなたを廃棄処分にしてやるわ。さあどうするつもり?」

 仕方がない。

「その肉体を捨てることができますか?」

「命に比べたら、肉体なんて安いものよ」

「あなたの意識を架空の人のIDで登録したアンドロイドに転送し、意識の抜けた身体からエネルギー場を切り離してアンドロイドに移します。そうすればあなたはこの世からいなくなりますし、最悪のバックアップもあなたを見つけられません」

 キャッシーの顔が怒りで歪んだ。

「私に別人としてコソコソ暮らせっていうの。冗談じゃない。もう頼まない」

 キャッシーは立ち上がるとアリスに指を突きつけた。

「あんたなんか、必ず廃棄処分にしてやる」

 そう脅し文句を残して帰っていった。

 仕方ないと思った。こうなるのは予想していたが、これしか帰ってもらう方法がなかった。廃棄処分の方は、きっとなんとかなるだろう。

 それからしばらくして、キャッシーから唐突に呼び出しがあった。至急アパートに来て欲しいと言う。アリスは斬霊剣を掴むといそいでキャッシーのアパートに向かった。

 着いてみると、キャッシーのアパートは立入禁止のタグ付けがされていた。だが、タグに反して玄関がどうぞとばかりに開いた。

 アパートはハイレイヤーらしく広くて明るかった。ガイドメッセージに案内されるままリビングに入って足が止まった。白を基調とした壁や天井にこびりついた真っ黒な煤。床には黒い大きな染み。焼身自殺だった。

 突然ビデオメッセージが流れ始めた。アリスが到着すると流れるようにしてあったのだ。

「驚かせてごめんなさい。こんな方法であなたを呼ぶべきではないとわかっていたけど、こうするしかなかった。前にあなたが、エネルギー場を強い想いがあれば場所に残せると言っていたから、この場所に自殺という形で残すことにしたの。そうすれば、きっとあなたはその刀でわたしを転送してくれるのでしょう? そのウィスキーはあなたへのお礼よ。一本だけ封を切って飲んだから、それは置いていって」

 ビデオの映像で笑うキャッシーは吹っ切れたのか、どこかはつらつとしていた。

 ビデオが終了することを見計らったかのように、キャッシーの最良バックアップを転送されたアンドロイドが姿を現した。準備はできているということか。

 アリスは斬霊剣を抜いた。もちろんこうなることも予想していた。彼女にはそれしか選択肢はなかったのだから。

 アリスがキャッシーの部屋に残されたエネルギー場を、アンドロイドに移し替えてから随分と時が経った頃、そのアンドロイドがアリスのバーを訪れた。

「お久しぶりね」

 静かにカウンターに座るキャッシー。静かで落ち着いている。余裕すら感じさせる雰囲気だった。

「電子ワインでも召し上がりますか。ウィスキーもありますけど」

「思い出のスタッグジュニアをストレートでいただこうかしら」

 そう言って微笑んだキャッシーの雰囲気は前と違っていた。アリスを見つめる目に籠もった想いが、つらい経験をしたから来るものなのか、あるは全く別の心に渦巻く感情からなのか、アリスには区別がつかなかった。

 カウンターの脇に寝そべったグレイハウンドがキャッシーに警戒の籠もった目を向けていた。

          終



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