本当の偽物は本物か
アリスのバーにふらりと訪れた男はマーレイだった。マーレイはルナ解放戦線のリーダーだ。かつてはNo.2として部隊を仕切っていたが、リーダーが死んだためにその座を手に入れた男だ。
ただ、腑抜けという噂だ。
その腑抜けは時々バーに一人でやって来る。下からの重圧から逃れるためかもしれない。
「いらっしゃい。ウィスキー?」
アリスが尋ねる。選択肢はほとんどない。ウィスキーはアリスが独自に造ったもので、味は本物のウィスキーには遠く及ばない。ただ、飲めなくはないし酔うことはできる。
「お前が別の酒を隠し持っているって噂できいたぞ」
耳の速いことだ。先日亡くなった住人の部屋から出て来たものを、鑑定してほしいと持ち込んできた者がいた。
「預かり物なので、売り物ではないわ」
「俺が欲しいと言えば俺の物になる。ここはそういう場所だろ」
マーレイが傲慢さを隠しもしないで言った。
ルナシティはルナ解放戦線が仕切っている。アフリカの風という抵抗勢力はあるが、力関係ではルナ解放戦線が勝る。マーレイの言うこともあながち嘘ではない。逆らえば面倒なことになる。アリスは黙ってボトルを差し出した。
『白州蒸溜所秘蔵モルト』
限定品で希少な品だ。地球との交易がない現在、その価値は計り知れない。もし本物であればだ。
「本物かどうかわからないわよ」
「俺が本物だと言えば、本物になる。ここはそういう場所だろ」
マーレイは歪んだ笑みを浮かべた。その笑みには傲慢さとは違った雰囲気があったが、人間の心を読みきれないアリスにとってはそれがどういう意味なのかはわからなかった。
その頃、静止衛星軌道に位置するサーバ衛星ジュノーから無数のアンドロイドが宇宙空間に飛び出した。アンドロイドたちは足に大きめのブーツを着用し、足から地球の大気圏に向かってゆっくり下降していく。ブーツから逆噴射の炎は出ていない。なぜならブーツはマイナス重力子を打ち出すことで重力加速度を操り落下速度を制御してた。アンドロイドたちはそれぞれ各国の主要都市に向かって、ひとつの目的をもって散らばっていった。
ただ、その中で一体だけ下降しないアンドロイドがあった。そのアンドロイドはむしろ上昇をつづけ、他のアンドロイドたちとは全く別の方角を目指していた。それは月だった。アンドロイドはどんどんと加速を続けた。そして三日後に月圏内に到達すると向きを変えて減速を始めた。速度を十分に落とすとルナシティ上空まで移動した。完全に停止後、背中に背負ったパラボラアンテナを大きく広げ向きを調整した。アンテナの向く先はジュノーだった。
ルナ解放戦線とアフリカの風との抗争が急に激しさを増し始めた。アフリカの風構成員はスリーパーと呼ばれ、普段構成員の意識部分を眠らせているため見つけることが難しい。彼らはシグナルを受けると、突然その本質を露わにして襲いかかってくる。そのためふいを突かれることが多く、ルナ解放戦線の兵士たちは甚大な被害を被っていた。意識の深層に隠された情報を検知する手段はなく、戦闘が始まったら近くにいるの仲間が助けに行くことになっている。アリスのようなアンドロイドは皆、手助けに行くことを義務付けられていた。
その日も戦闘発生の連絡を受けてアリスはバーを飛び出した。ところが現地に着いてみるといつもと様子が違う。明らかにアフリカの風とわかるような構成員がおらず全員ルナ解放戦線のメンバーに見えた。
アフリカの風のスリーパーはルナ解放戦線の中にも潜んでいるため、そういったこともありうるのだが、戦闘の様相がいつもと違うのだ。なぜならば、中心で暴れているのはリーダーのマーレイだった。
マーレイは近くいるメンバーに飛びかかっては、腕や首筋に噛みついている。部隊のトップが暴れているのをメンバーたちはどう対処してよいのか分からず、ただひたすら逃げ惑っていた。
アリスは混乱の中心に飛び込むとマーレイの背後から組み付いて両腕を羽交い締めに押さえつけた。
「ぐあおおおお!」
マーレイは異常な力で暴れて獣のようなうめき声を上げた。
「誰か、麻酔銃を」
アリスが叫んだ。
すると横から兵士が一人歩み出てその側頭部に向かって銃弾を放った。
マーレイの頭が吹き飛んだ。
腕の中で急速に力を失ったマーレイをアリスはゆっくり地面に横たえた。見上げるとNo.2のナルミが銃を構えて立っていた。
「マーレイは死んだ。怪我を負った者は手当してもらえ。さあ、皆仕事に戻れ」
ナルミの命を受けて困惑顔の兵士たちはそれぞれ散っていった。
「殺さなければいけなかったの?」
「そいつの顔色がまともに見えるか?」
地面に横たわるマーレイの顔は真っ白だ。死人の土気色とも違う。明らかに人の顔色ではない。
「これは」
アリスは事態を理解した。
「何か知っているのか」
「ゾンビウィルスよ。どこかからウィルスが侵入して拡散し始めている。大変なことになるわ」
アリスはゾンビウィルスがアテナスによって開発されたこと。人間の血肉をグラフェンとポリマーに変えてしまうことをナルミに伝えた。みるみるナルミの顔色が変わる。
「おい、噛まれたやつを拘束しろ」
解散しつつある兵士たちにナルミが怒鳴ると、動揺が和のように広がっていった。そこここで噛まれた兵士が組み伏せられていく。
「どうすればいいんだ」
「分からないわ。対処法を知っているのはアテナスと」
アリスは怒気のこもった眼差しをする。
「夢郎よ」
ルナシティ全体に緊急警報が響いた。アリスとナルミは辺りを見回した。ゾンビウィルスについての事態を正確に把握している者はまだいないはずだ。ならば一体何の緊急警報なのかと訝っていると、遠くでルナ解放戦線の本部が何者かに襲われたと叫ぶ声が聞こえた。
続いてルナシティ上空に立体映像が浮かび上がる。その人物は朗々とメッセージを読み上げる。
「たった今、ルナシティ全体に非常に危険なウィルスが散布された。住民の皆さんは大変な危険にさらされています」
メッセージを読み上げている人物はマーレイだった。そのマーレイは目の前に横たわっている。ならばメッセージを発しているのは誰なのか。
「この事態から逃れる手段は二つしかありません。一つは全てを諦めて死に己の身を委ねること。だが、これは皆さんの望むところではないでしょう。もう一つの手段は、肉体を捨てて完全意識に融合することです」
「馬鹿な!」
ナルミが吐き捨てた。ルナ解放戦線は肉体を捨てない代わりに地球を捨て、月に移り住むことを選んだはずだ。ナルミは本心を確かめるべく本部に向かって駆け出した。アリスも気になることがありナルミに続いた。
ルナ解放戦線本部は激しい戦闘が繰り広げられていた。入り口を取り囲んでいるのはアーマードポリスと兵士たち。そして入り口を占拠して抵抗しているのはゾンビたちだった。先日第一坑のエアロックに閉じ込めたはずの連中だ。扉を打ち破って出て来たのだ。ゾンビたちは獣のような雄叫びをあげて銃を乱射していた。アーマードポリスが銃を打ち返すが、ゾンビたちの硬い表皮に銃弾は効かなかった。ゾンビウィルスは肉体をカーボン繊維、グラフェン、そしてポリマーに変化させてしまう。それでも機械ではないから対アンドロイド無効化銃や電磁パルス弾も効果ない。ポリマー化してしまった脳でどう思考するのか分からないが、銃を扱うだけの知恵はあるため無闇に突っ込んで行けなかった。
「くそ。入れない」
「裏口はないの?」
地面に転がる電磁パルス弾を摘み弄ぶアリスを見てナルミが目を丸くした。なんでお前がいる? とでも言いたいのだろう。
「あなたより彼らに詳しいわよ」
ナルミは仕方ないとばかりに言った。
「付いてこい」
緊急避難用の坑道を抜けて本部に入ると、うろつくゾンビを避けながらマーレイの執務室に向かった。突然現れ、銃も効かない相手にどう対応していいのか分からなかったのだろう。廊下のあちこちに手足を齧られて血を流す兵士の姿があった。手当してやりたいが、止血はできてもゾンビ化を止める方法が分からない。放っておくしかなかった。
マーレイの執務室に飛び込むと、当の本人は革張りの椅子に身を委ねてグラスに注いだウィスキーを嗜んでいた。先日アリスから取り上げた『白州蒸溜所秘蔵モルト』である。
「さわがしいな。どうした。やあ、アリスも一緒かね。仲よく一杯といくかね」
「ふざけている場合か。さっきのメッセージは一体どういうことだ。影武者がいたことも聞いてないぞ」
「全員完全意識に融合してもらおうと思ってね。ジュノーから送信用アンテナも届いたので、それを伝えたという訳だ。君には言っていなかったかな。すまないね。まあ、そういうことだよ」
「冗談じゃない。俺は完全意識になんか融合しないぞ」
ナルミはそう言うと銃を向けた。
「君が撃ち殺したあれは影武者というよりスペアだ。部品取り用の俺のクローンでね。頭の中にはチップしか入ってない腑抜けさ。まずは感染したら肉体がどうなるかを実験したのだよ。まあ、その物騒な物を仕舞って、お前もいっぱいやらないかね。珍しいウィスキーをそこの」
アリスを指差す。
「アンドロイドにもらってね」
取り上げたくせに。アリスが鼻を鳴らす。
「さぞかしおいしいことでしょうね」
マーレイが笑う。
「残念ながらこれは偽物だな。シングルモルト特有の濃厚で奥深いフレーバーがない。空き瓶に安物でも詰めたのだろう」
「それにしては美味しそうに飲んでいるじゃない」
「俺が本物だと言えば本物になる。そう言っただろう。このウィスキーはこういう味なんだ。だが、俺が飲んでいるんだ。希少なことに変わりはない」
「黙れ。裏切り者」
ナルミが銃を撃った。
だがナルミの放った銃弾はマーレイの頭部を後ろに反らしただけで、金属的な音をたてて弾き返されてしまった。
ナルミは連射するが全ての弾は虚しく弾き返されてしまう。
「無駄だよ。私は今最強になった。銃は効かないし酸素も不要だ」
がっくりと膝を落とすナルミに向かってマーレイは言った。
「俺はね、死ぬほどこの街が欲しいんだよ。だから逆らう人間は一人もいらない。この街の王になるためにはなんだってする」
「どうしてそんなことをする必要がある。アフリカの風さえ排除すれば王になれるじゃないか」
マーレイはグラスを置いて執務机の周りをゆっくり回り始めた。
「もし、アテナスの気が変わったらどうなる? あいつが育ててるポストヒューマンの猿どもが月を欲しがったら? そうなった時のために最強の軍隊が必要だ。この体になれば酸素もタンパク質も必要ない。そのためにあるお方と手を組んだ」
「夢郎」
「そうだ。夢郎様だ。あのお方が俺の野望を現実にしてくれる」
「でも、住民が完全意識に融合してしまったら街はなくなってしまうわ。廃墟で暮らすのがあなたの野望なの?」
「ちがう。完全意識には一時的に融合するだけだ。肉体が空になったらゾンビ化させる。その後完全意識からそれぞれの肉体に意識を戻す。完全意識に融合してしまうと個性は消えてしまうが、住民に個性など必要ない」
アリスはふと疑問を感じた。入り口で銃を乱射しているゾンビたちは多少の意識があるのだろうが知性的とは言い難い。それにくらべてマーレイは明らかに知性がある。この差は何なのだろうか。それに街で殺されたマーレイのスペアの頭部からは赤い血が流れた。頭の中はチップだけではなく、脳だったものが詰まっていた。
「ねえ、あなた本当のマーレイ? もしかしてあなたがスペアなんじゃないの?」
自分に酔ったように演説をしながら歩くマーレイの足が止まった。
「ふざけたことを言うな。俺が本物に決まっているだろう」
「偽物でもあなたが本物だと言えば本物になるのよね」
「そうだ。だったら、どちらが本物だろうと関係のないことだ。俺は常に本物だ」
「そうかしら。試させてもらうわ」
アリスは外で拾った電磁パルス弾をマーレイに放った。電磁パルス弾は半径50センチメートルに強力な電磁パルスを浴びせて電子機器を動作不能に陥らせる。
「何だこれ…ぐ!」
電磁パルス弾を受け取ったマーレイが白目を剥いた。アリスのようにパルスガードをしていないためだ。部品取りのスペアにそんな贅沢な装備をする訳が無い。
「いくら最強の肉体を手に入れても、頭が空じゃあだめね」
アリスは『白州蒸溜所秘蔵モルト』のボトルを手に取ると壁に向かって投げた。派手な音と共に瓶が砕けて中身が飛び散った。
「偽物はいつだって偽物なのよ」
見ていたナルミが頭を抱えた。
「もったいない」
「この混乱を収めたらうちへ飲みにいらっしゃい。本物のウィスキーを飲ませてあげるわ。味の保証はないけど」
終
『白州蒸溜所秘蔵モルト」ははサントリーがウィスキー売上を伸ばすために企画したキャンペーン用の返礼品です。1984年に木桶で醸した原酒を直火釜で蒸留し、シェリー樽で熟成したものです。シェリー樽由来の甘やかで豪華な芳香とバニラのような木香、そして直火の香ばしさを持つレアなウィスキーです。というと当時からウィスキーマニア垂涎ものとみえますが、当時はウィスキー冬の時代で結構な在庫が余ったようです。ジャパニーズウィスキー全般人気高の現代だと間違いなくレアな逸品ですね。
さて今回は「偽物」という点に焦点をあてたお話です。偽物のウィスキーというと怪しいバーで高級ウィスキーのボトルに安物を入れるというのが定番でしたが、Web全盛の現代では偽物を本物偽って出品するのが定番でしょうか。そんな中でスイスのホテルで一杯9999フラン(約110万円)の超高級ウィスキーが鑑定の結果偽物と判明した、という記事を読みました。ウィスキーは1878年もの『ザ・マッカラン』ですが、専門家から指摘されて放射性炭素年代測定をした結果1970年代製造品と鑑定されました。ウィスキーを飲んだセレブの方はその時気づかなかったようです。鑑定しなければ幸せなままだったのに、と思いました。これで誰も気が付かなければセレブが飲んだウィスキーは「本物」のままです。さて「本物」とは一体何なのでしょうか。ホテルは代金を返却したそうですが、幸せは返却されませんよね。