夜を抱く
人間は実は夜行性なのではないかと思う。そうでなければ、これほどまでに気持ちが安らぐ理由がわからない。夜、静かな住宅街を歩き公園の池の黒い水面を見つめる度に私はそう思った。
私は木挽珠子という。小さな雑貨輸入会社で事務として働いている。人付き合いがいい方ではないため、社内に友人と呼べる人はいないし、宴会が開かれても全て断っている。プライベートでも友人は少ない。見た目もパッとしないせいで30歳間近で独身だ。そんな私の趣味のひとつが夜の散歩だった。夜のしっとりしたベールが全ての煩わしさを覆い隠してくれる。
ただ、夜は人の本性をあらわにしてしまう。本来精神的に未熟な連中は、その粗を隠すのに疲れ、夜に全てを曝け出す。目を獣の如く輝かせながら、他人を罵り、殴り、衣服をむしり取り、暴走する。
その暴走によって連日不幸な事故や事件が報じられるが、彼らには届かない。何故なら、未熟だから。
だが、私にどうこうできる話ではないので、私はただそういったトラブルをなるたけ避けて通るようにしている。公園までの道筋もなるたけ危険がなく、かつ静かな道を選んでいた。もちろん危険を回避するための道具、スタンガンは常に携帯していた。
それなのに、それは起こってしまった。夜は誰にもおもねらない。
いつものように、公園を回り込むようにして歩いていると、それは突然目の先に現れた。いや初めからそこに立っていたのかもしれない。はっきりとしない。左手は公園のフェンス。道路を挟んで右手には住宅の灯りが続く。さあっと夜風が頬を撫でる爽やかな夜。車も人もおらず路上には彼と私だけだ。時間のエアポケットに落ちてしまったように感じた。
彼は、それが彼と呼んでよいのであれば、今まで見たことがないほど背が高かった。スーツなのかコートなのか分からない丈の長い上着を纏い、よれた鍔付き帽子を被っていた。猫背気味で立ち、まるで身体中で夜を吸い込んでいるように感じた。
私は心の警戒音が響くのを感じた。ポケットのスタンガンを握りしめたがそんなもの役にはたたないだろう。彼はこちら側の者ではない。そしてひどく危険だ。
私は小さな時から他人には見えないものが見えた。表情に乏しく何をするでもなくぼうっと立っているものたち。私は誰でも彼らが見えるのだと思っていた。時々彼らのことを話題にして、不審な目を向けられる理由がわからなかった。物心ついて初めて、他の人たちには彼らが見えないのだと悟った。以来私が見えているものたちのことを語ったことはない。ただ一人を除いて。ただ一人、叔母は私が見えることを見抜いていた。
だから、今少し先に佇む彼が人ならざるものだとすぐに気がついた。決して目を合わせてはいけない。道路を渡って進めばよいというレベルの相手ではない。今日の散歩は終わりにして引き換えそう。そう思った矢先、彼がこちらを見た。夜の沼のような黒々とした瞳がこちらを見据えた瞬間動けなくなった。背中を嫌な汗が伝った。
彼は滑るようにしてこちらに近づいてきた。逃げ出したいが一歩も動けない。視線を外すこともできない。彼が皺だらけで灰色の右手を持ち上げた。長くて細い指にはしみが浮き、爪は不潔に伸びていた。その手が私の顎にわずかに触れた。冷たい。全身に鳥肌た立った。彼は無精髭だらけの頬を僅かに持ち上げにやりと笑った。
「私が見えるのだな」
私は震えるようにして頷いた。
「よし、お前にしよう」
そう言って彼が手を下ろした。言葉の意味は分からなかったが、危害を加えられないとわかると少し気持ちが落ち着いた。
「あなたは何者なの」
彼は私を見下ろしながら静かに答えた。
「私は秩序だ。お前は力がある。その力で私を手伝うのだ」
私は細かく首を横に振った。このような身の毛がよだつものの手伝いなどできるはずもない。
彼は私の反応が気に入らないらしく顔を近づけてきた。周りの空気が一気に冷えていく。全身が恐ろしさでがたがたと震えた。
「お前を守る者がいるようだな」
彼は顔を離した。
風が吹いた。次の瞬間彼はもうどこにもいなかった。
私は間両肩を抱いてその場にしゃがみ込み震えが消えるのを待たねばならなかった。
あれから夜の散歩は控えていた。とても出歩く気になれなかった。ぼんやりテレビを眺めていると、地方で起きた轢き逃げ犯がこの地域に逃れてきたかもしれないと報道していた。そんな折、何年も連絡していなかった叔母から唐突に電話があった。
叔母はどこか焦っているような口ぶりだった。嫌な夢を見た。私に何かよくないことが起こるかもしれない。詳しく見たいのでこちらに来れないかと言うのだ。叔母の力は私もよく知っていたので有給をもらって私は宮城まで行くことにした。
山間の叔母の家まで行くと叔母はもう玄関先で待っていた。挨拶もそこそこに祭壇の設られた部屋へ通された。
「あんた、最近何かあったかね」
「う、うん」
私自身先日の体験を理解できておらず言葉を濁した。
「まあええ。そこに座りなさい」
叔母は私を座らせると、これでもかと香を焚きよくわからない経を唱え始めた。
小一時間もそうしていただろうか。叔母の声が大きくなったと同時に背後に誰かの気配を感じた。振り向かずとも彼だと分かった。叔母も気がついたのだろう。よりいっそう経を読む声を強めた。
すると彼が私の横をすっと通り抜けて叔母の背後に立った。
叔母が驚いて振り向く。
同時に彼は叔母の頭をその長い指で鷲掴みにした。
「ぎえー」
叔母が蛙のような悲鳴をあげた。
彼は空いた右手をさっと横に伸ばした。すると手の先からつるが伸びるように黒い何かが伸び始め、やがて一つの形を作った。それは人の背丈ほどもあろうかという大鎌だった。
彼はそれを大きく振りかぶる。
「お前の縁を断ち切ってやる」
「止めて」
私は絶叫した。
大鎌が無慈悲に光った。
「あなたの言うことを聞くから。聞くから止めて」
彼の動きがぴたりと止まった。
彼が振り向いた。黒い沼のような目が私を見据えた。全身に鳥肌が立つ。
「間違いないな」
「ま、間違いないです」
震える声で答えた。
「これは契約だ」
彼はそう言うと叔母を離した。
床に倒れた叔母は失禁していた。
私は夜の散歩を再開した。もう逃げても意味がないからだ。あの後叔母は震える手で出口を指さすだけで何も言わなかった。叔母ほどの霊能者でどうにもならないのなら、誰にもどうこうできない。諦めるしかなかった。私はどうなるのだろうか。
一月ほど経ったある日、彼が公園の入り口で待っていた。相変わらずその目で見据えられると鳥肌が立った。
彼は繁華街の外れにあるうらぶれたスナックに行けと指示をした。あまり評判のいい店ではなかった。そんな店に若い女性が一人で行けばろくなことにはならないと思ったが、あの大鎌が私に振り下ろされることを考えれば行くしかなかった。
スナックの看板は誰かに蹴られたのか角が欠けていた。階段を降りて重たい扉を開くとカランと鈴が、思いの外軽やかな音を立てた。店内は薄暗くカラオケの耳障りな音で埋め尽くされていた。
正面横にカウンター席がいくつか並び、内側で振り向いたママが不審げな目を向けてきた。左奥がボックス席になっていて数人の男たちがカラオケを歌う男を囃し立てていた。そして正面でカラオケマイクを手にした柄の悪そうな男が私を見つけて、
「あ?」
っとすっとんきょうな声を上げた。
その声で皆が一斉に私の方を向いた。とたんに場の空気が変わった。飛んで火に入る夏の虫、といったところか。不穏な空気が場を包む。ママは我関せずといった風に目を背けた。
客の一団から一人が歩み寄ってきた。
「へえ。珍しいお客さんだ。ねえ、ママ。これはちゃんともてなさないと」
ママがわずかに舌打ちするのが分かった。
「面倒事をおこさないでおくれよ」
男がへへへと笑う。
「一緒に飲もうじゃなかい」
奥から声が上がり同時に笑い声も上がる。
男が私の手首を掴んだ。
「さあさあ」
私は腕を引いたが、こうするのが分かっていたのだろう。男の力は思いの他強く振り切れない。私はポケットからスタンガンを取り出した。
「その手を離して」
「おいおい、物騒だな。こんな店に一人でのこのこやってきてどういうつもりだい」
男が握る手に力を込めた。あまりの痛さにスタンガンを取り落としてしまった。
男のは満面の笑みを浮かべる。もうご褒美を手に入れたと完全に浮かれているのだろう。
「夜は長いぜ。せいぜい楽しもうじゃないか」
男が言い終わると同時に眉根を寄せた。
「あん? 誰だお前」
男の目は私の背後に向けられていた。そこには彼が立っていた。
私の手を握っていた男はその手を離し、ポケットを探り始めた。ナイフでも出すつもりなのだろうが、彼が持つ巨大な鎌を見つけその手はポケットに差し込まれたまま固まった。
奥のボックス席はやいのやいの大騒ぎだ。早く女を連れて来いと騒いでいるのだ。そして彼らには私の背後に立つ彼も、彼が持つ大鎌も見えてはいない。私の手首を掴んだ彼だけが、私の力を借りて彼を見ているのだ。
「どうしたんだよ。小便でもちびったか」
奥で笑いが弾ける。
その笑いを断ち切るように、彼の大鎌が振り下ろされた。
私は咄嗟に目を瞑った。生暖かい血飛沫が顔にかかるのを覚悟した。あんな大鎌で切られたらとても目を向けられる状態ではないだろう。
どれほどそうしていただろうか。いつしか奥のボックス席の喧騒が止んでいた。恐る恐る目を開けると目の前の男はまだそこに立っていた。ただ、男もまた大鎌の一振りに恐れをなして固く目を瞑っていた。男に傷はなく、一滴の血も流れてはいなかった。
いつの間にか彼もいなくなっていた。
目の前の男はようやく自分が無事だと悟ったらしく、体のあちこちを確認してから大きく息を吐いた。
「なんだよ。驚かせやがって」
そうしてようやく私の存在を思い出したらしく、再び嫌らしい笑みを向けてきた。そして手首を取ろうとして、一瞬息を飲み、その手を引っ込めた。
「まさか帰ったりはしないだろ。ほら奥へ行けよ」
そして奥の仲間に向き直ると、
「おい、お前ら今夜は夜通しパーティーだよな」
と叫んだ。
ところが奥のボックス席から返ってきたのは歓声ではなく、冷めた視線だけだった。
「おい、どうしたんだよ。しけた面しやがって」
「あんだと?」
ボックス席の男たちが息巻いた。
「おい、どうしたんだ」
「どうしたもこうしたねえ。見ず知らずの野郎にしけた面と言われて黙ってられるか」
数人が立ち上がった。
男が両手を前に出す。
「ちょっと待ってくれ。どうしたんだよ一体」
「うるせえ」
ボックス席の男たちが一斉に目の前の男に飛びかかった。
突然の成り行きに混乱する男を尻目に、私はスタンガンを拾い上げると慌てて店を飛び出した。道路に出ると後ろを振り返りもせずにひたすら走った。繁華街を抜けて交番を通り過ぎたあたりでようやく誰も追いかけてこないことを確認した。何がどうなったのかよく分からなかった。
あれから一週間ほど経った頃、轢き逃げ犯が捕まったことがニュースで報じられていた。轢き逃げ犯はどうにも空腹に耐えられず食料を万引きしたところを取り押さえられた。ニュース映像を見るとその轢き逃げ犯はスナックで私の手首を掴んだあの男だった。
男は行くところ行くところで罪を犯し、最後は轢き逃げの罪を逃れるためにこの街に流れてきたそうだ。そして裏町に潜伏していた。ところが男を匿っていた仲間、ボックス席にいたあの連中だ、と仲違いし行くところもなければ食べるものもない状態となり、やむなく万引きした所を捕えられたという訳だ。
だが、なぜ急に彼らは手のひらを返したのか。私がスナックを訪れた時にはとても仲違いしていたようには見えなかった。そう、彼が大鎌を振り下ろした直後に、男らは轢き逃げ犯と無縁の人たちになった。
彼が叔母の家で言ったことを思い出した。
「お前の縁を断ち切ってやる」
彼の大鎌は肉を断つのではない。縁を断つのだ。仲間との縁を切られた男は連中にとって他人になった。他人にしけた面と言われ、連中は腹を立てて喧嘩になったのだ。そして受け入れてくれる人もなければ食べるものを提供してくれる人も失った男は、ついに万引きするまでに落魄れた。人は誰しも一人で生きていくことはできない。全ての縁を断ち切られてしまえば食うにも困るようになるのだ。轢き逃げ犯の男はたとえ罪を償ったとしても、これから先永遠に誰とも縁を結べずに生きていかねばならない。それはまさしく野良犬のような生活になるだろう。なんという恐ろしい罰か。私はあの大鎌の無慈悲な光を思い出し、ただただ震えた。
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