雨空と生き霊
「俺は晴れた青空が好きだからここで暮らすことにしたんだ」
オガワはそう言って電子ウィスキーのグラスを口に運んだ。グラスの中身は彼が好きな『アイル・オブ・スカイ12年』だ。どこまでも晴れが好きな男なのだろう。ただ『スカイ』のスペルは『SKYE』だということは黙っていた。アリスにしてみればオガワが気持ちよく飲んでくれればそれでいい。
ここはゴミ処理島のドリームシティ。ここの住人は皆ゴミを元素に還元し売って暮らしている。アンドロイドのアリスはそんな島で小さなバーを営んでいる。
オガワが言う通りこの島はいつでも晴れだ。なぜなら島は巨大船を並べて作られていて、嵐を避けて大洋を移動していた。
そのドリームシティがここのところずっと雨雲から抜け出せずにいた。巨大な雲が太平洋を覆い尽くしていた。
「なのに、ずっと雨ってのはどういうことなんだよ」
「飲水が確保できていいじゃない」
「水なんざ足元にいくらでもある」
海水を飲料水を作る技術はずいぶんと昔に確立され、航海で水に苦労する時代は過ぎ去った。時々雨に濡れるのは気分が変わっていいものだが、それがひと月も続くようだとさすがに気が滅入るらしく、彼は連日アリスの店を訪れて『スカイ』を飲んでいた。
今日の一杯を飲みのすとオガワは帰って行った。濡れた通路が街灯の明かりをしっとりと反射していた。
客も引けてアリスが後片付けをしているとオガワが駆け込んできた。扉を背で押さえて荒い息を吐いている。
「忘れ物?」
「いや、ただ、もう一杯だけ飲みたくなって」
悲壮な表情が断らないでくれと言っている。何か理由がありそうだ。アリスは黙っていつもの『アイル・オブ・スカイ12年』を出してやった。
ウィスキーを飲んでいる間ずっとオガワは外を気にしていた。アリスが窓からそっと外を見てみると、街灯の下に佇む女性が見えた。白い服を着た髪の長い女性。顔は前髪に隠れて見えない。そして女性は傘をさしていない。
オガワを見る。オガワもまたアリスが何を見たか分かっている。さっきより顔色が青い。何かを振り払うようにウィスキーを飲み干し、グラスをアリスに突き出した。雨足が強くなりどこか遠くで雷鳴が響いた。白い服の女は姿を消していた。
翌日もその翌日も雨は続いた。それは無限に続くかのようだった。オガワは毎日アリスの店に通ってきた。こちらはいつまで続くかわからない。日に日にやつれていくように見えた。
「少し休んだ方がいいんじゃないの。顔色が悪いわよ」
「こいつを飲んでいればいつか晴れるさ」
言葉と裏腹にその目には力がない。ただ何に対してかわからない必死さだけが強い光となって宿っている。
「なあ、外に誰かいるかい」
「いいえ。誰もいないわ」
オガワはアリスの言葉さえ信用できないとでも言うように扉の先を睨みつけた。そして空になったグラスを弄ぶ。いつもならこのあたりで腰を持ち上げるのだが今日はいつまでもグラスをいじり続けている。
「何かご相談でもあるのかしら」
アリスが水を向けるとオガワは真剣な面持ちでアリスを見た。
「あんた、見えるんだろ」
もちろんオガワが何を言っているのか分かっている。アリスが先日目にした白い服の女はこの世の者ではない。
「落として欲しいということかしら」
アリスにそういうことができるというのは周知の事実だ。
「きっと俺は呪われている」
「思い当たる事でもあるの?」
それには答えず、彼はただ頼むとだけ言った。
アリスの右目は重力に与える僅かな影響から人が持つエネルギー場を読み取ることができた。それは人が持つ意思や想いによって形作られ、そして肉体がなくなってもエネルギー場として残ることがある。
つまり、アリスは人が見えないモノを見ることができた。
もし、誰かが残した強い想いがオガワに取り憑いているのなら、アリスにはそれを見る事も落とすこともできる。
「分かった。今からあなたに憑いているモノを落とします」
アリスは店のグラフィックを変更した。広い和室で中央に大きな祭壇があり囲いの中で護摩の炎が高く立ち上っている。全体が暗く四方の壁沿いにずらりと僧侶が並んで座るが、その顔を確認することはできない。僧侶は聞こえるかどうかの強さでひたすら読経を続けていた。
「どうすればいい」
「炎を見つめて。それだけでいいから、ただじっと炎を見つめていて」
曖昧に頷くオガワ。揺れる炎を見つめるうちに頭の中が真っ白になる。
木魚の振動が腹に伝わる。金剛鈴の高い音色が延髄を痺れさせ、それとは別に鉦の金属的で一定のリズムが思考を麻痺させていく。そして低い読経の波動が全身の感覚を奪い取り意識の視点をずらす。覚醒しているはずなのにそれは夢を泳ぐような、自分自身の存在すらあいまいになる感覚。変性意識の世界へと彼を導いていった。
アリスはオガワの目から光が消えたことを確認すると、斬霊剣を抜き放ち頭の上数センチを横に薙いだ。続け様に耳元から肩すれすれを左右両方切り下げる。通常なら身震いするところだが、別世界を泳ぐオガワに何の反応もなかった。
最後に気合を込めて首筋ぎりぎりを突いた。
「いい加減に気付きなさい。あなたは死んだのよ」
ふっとあたりの明るさが増した。落としは終わった。
アリスが両の手をオガワの目の前で叩いた。一気に意識が引き戻される。店のグラフィックはいつも通りに戻っていた。
オガワは二、三度頭を振り首の付け根あたりを揉んだ。
「なんだか視界が明るくなった気がする」
「もう大丈夫だと思うわ」
「これで安心して飲めるようになる。助かったよ」
心配事はこれで終わった。二人ともそう思った。
雨は相変わらず降り続いていた。本降りがようやく終わり雨足が弱まった頃、白い服の女がまた街灯の下に立った。
「どういう事なんだよ。もう終わったんじゃないのかよ」
オガワはいつもに増して怯えていた。
「なんであいつはあそこにいるんだ。なんで消えないんだよ」
今までこんなことはなかった。確かに落とした感触があった。斬り落とされたエネルギー場はそれだけでは存在できない。やがて形を失い大きな別のエネルギー場に吸収されてしまう。だが、白い服の女は相変わらず街灯の下に立っている。ありうるとすれば、
「あれは生き霊かもしれない」
「どういう事だ」
「生き霊は落としてもまたやってくる。その想いの持ち主がいなくならないかぎり。非常に厄介な相手よ」
「ばかな。そんなことあるはずない」
「それしか考えられない」
「あり得ないんんだよ」
オガワがカウンターを力任せに叩いた。
「あいつは俺が殺したんだ。雨の夜にこの手で首を絞めて殺したんだよ」
白い女の正体はオガワの元恋人だった。
ドリームシティは無法者の街だ。オーキーやゲン爺が顔役として収めているが、実の所ここに法は存在しない。ひと所に止まらないのは法の目をかい潜るためだ。だからこそ行き場を失った無法者が流れ着く。ここに住む者で人を殺したことがある者は多いだろう。
「ならば、考えられる事は一つしかないわ。その人の意志を継いだ誰かがいるということ」
「そいつの生き霊だっていうのか」
アリスが首を縦に振る。
「それもあり得ない。あいつが死んだことを知っているのは俺だけだ」
アリスがまじまじとオガワを見た。その無言の語りかけがオガワに全てを理解させた。よろけて壁に背をぶつける。
「まさか、あいつの意志を受け継いで、俺を呪っているのは、俺自身だっていうのか」
「そう。それが答え」
だとすれば、白い服の女を落とすことはできない。それはオガワ自身を落とすに等しい。真実を知ったオガワはふらふらと店を出て行った。雨は降り続いている。いつの間にか街灯の下から白い服の女は消えていた。
雨雲を抜けたドリームシティの上には晴天の空が続く。オガワはいまでも店にやってきて『アイル・オブ・スカイ12年』を飲んでいる。ただ、力のない表情が、彼の心の中にはいつでも雨が降っていると物語っている。だから彼はこれしか飲めないのだと。
終
『アイル・オブ・スカイ12年』はスコットランド北部のスカイ島で製造されるブレンデッド・スコッチウィスキーです。本編で書いた通りスカイのスペルは『SKYE』で空の意味ではありません。『SKYE』はゲール語で『翼』のいみ。つまり『アイル・オブ・スカイ』で『翼のある島』という意味になるそうです。
『アイル・オブ・スカイ12年』はキーモルトに『タリスカー』を使用しているため、力強いピート香を持ちます。そこにハイランドのグレーンウィスキーをブレンドすることでバランスよく仕上げています。
さて、今回のお話はウィスキーベースで考えました。『翼のある島』からはなかなか連想しづらかったため、あえてカタカナの『スカイ』から読み取れる『空』に関するお話にしようと考えました。『スカイ』で連想するのはやっぱりどこまでも続く青空だと思います。気持ちのいい青空が好きな男がそれを欲する本当の理由は、実は雨の日の凶行だった。という感じで考えていきました。きっと男は雨の降らない所に飛んでいきたいと思って飲み続けているのでしょう。
ちなみにオガワという名前は別のお話を練って付けた名前なのですが、お話がどうにもまとまらず、新たに考えるのも面倒でそのまま使いました。元のお話はまたいつか別の機会に。