その虎パーソナライズにつき
夜空にぼうっと浮かび上がった光るリングは幻想的であり、そして夜通し泳いでいるアリスにとっては灯台にも等しかった。そのリングの下には島があるにちがいないからである。いくら座標に従って泳ぐことができても、波や流れで進路はずれてしまう。五色に光り天空に向かって重ねられたリングは今夜の目的地を示していた。
その島は細長く、中程から半分がビーチになってた。そのビーチの一番端の上空にリングは浮いていた。目測で一番下のリングは100メートル上空。その上に100メートルごとに重ねるように残りのリングが浮いていた。直径は10メートルほど。真下から見ても一体何のためのリングなのかわからなかった。
島の反対側には木々が茂り森を作っている。ここも人工島に違いないのだが、一見して普通の島に見える。そして森の奥には灯を灯した建物が見えた。アリスは充電をお願いするために建物に向かって歩み始めた。
森に分入ってすぐに何か特殊な雰囲気を感じ取った。ここはただの森ではない。野生の生物もいるようだが、どこか怯えている感じがある。まるで戦場に足を踏み入れたときのような、森全体が緊張でひりついた雰囲気があった。
しばらく歩くと一頭のヤギに出会った。野生のヤギは普通このような島にはいない。そして鎖で繋がれていることもない。つまり誰かの仕業ということになる。そしてこのヤギはひどく怯えていた。
アリスは辺りの様子を探った。少し離れたところにエネルギー反応が見えた。こちらを伺っているようだ。だがこちらが気づいたことを敏感に察知したのか、それは低い地響きのようなうなりを一つ残し静かに遠ざかっていった。この森に周りを怯えさせる何かがいるのは間違いないようだ。
ほどなくして辿り着いた建物はあまり大きくはなかったが、近代的な建物で奥の方には格納庫と思しきものも見受けられた。アリスがセンサーに来訪の目的を告げると、すぐに正面扉が開き一人の痩せた男が杖を突きながら出てきた。
男はガイルといいここで遺伝子の研究をしていた。背は高い方だがひどく痩せていた。今時珍しいメガネを使用していたり、杖をついたりするところを見ると、自分の健康状態にはあまり興味がないように見えた。そして何より物腰こそ柔らかいが、どこか冷たい印象を受けた。
「充電するのは構わないが、今日は疲れていてもう休みたいのだ。明日でいいかね」
「もちろんです」
「なら入って休みたまえ」
ガイルはアリスを食堂らしい部屋に案内し椅子を勧めた。つい今しがたまで一人で飲んでいたらしく、テーブルにはウィスキーのボトルとグラスが一つ置かれていた。ウィスキーは『プロローグW』だった。
「珍しいお酒をお持ちですね」
ガイルが片付けの手を止めた。
「こいつを知っているのか?」
「こう見えて、私はバーテンダーです」
ガイルはボトルを持ち上げると思い出深そうに見つめた。
「珍しいも何も、こいつは50本しか作られなかったウィスキーだよ」
「もしかしてプライベートカスクですか」
「そうだ。50リットルの樽で熟成させた。49本はこの研究所を開くために配ってしまった。こいつが最後の一本だ」
「そんな貴重なウィスキーを飲んでいたとは。何かいいことでもあったのですか」
ガイルはアリスを見返した。その目がわずかに光った。
その時、島のどこかから動物の悲鳴が聞こえた。もしかしたらさきほどのヤギかもしれない。わずかの間森は騒然としすぐに静かになった。
「ああ。いいことはあったさ」
ガイルはそれについて何も説明をしようとはしなかった。
「今の鳴き声は?」
「気にするな。明日も早いから私は休むよ。朝になったら充電してあげよう」
ガイルはそう言って足を引きづりながら奥に消えていった。
翌朝、ガイルは簡単な朝食を済ませるとアリスに付いて来いと言った。見せたいものがあるのだそうだ。ガイルに付いていくとそこは格納庫だった。格納庫の床に置かれているのは2台のエアライダーだった。1台はやや古く赤色でもう1台は真新しいクロームメッキ仕様だった。
エアライダーは一人乗りの機械でエアコンプレッサーの出力で飛行する。流線型をしているのは極限まで空気抵抗を減らすためで、描かれたゼッケンはレースマシンであることを示している。
「昔私が乗っていたマシンだ。こう見えて結構早かった。だが怪我をして引退した」
引きずっている右足はその怪我のせいだろう。
「今は若手を育成している」
隣に置かれたクロームメッキのマシンが若手のものなのだろう。
ガイルの話を聞いている時背後に何かの気配を感じた。その殺気の強さにアリスは思わず身構えた。格納庫の入り口からホワイトタイガー鋭い視線を向けていた。
「危ないです。下がって」
アリスがガイルを庇おうとすると、ガイルはいいからとでも言うようにその手をどけた。
合図をするとホワイトタイガーはのそのそと格納庫に入ってきた。どことなく虎にしては歩き方がおかしいし体型も妙だ。そしてアリスたちの少し手前でホワイトタイガーはおもむろに立ち上がった。それはホワイトタイガーの姿をした人間だった。
「紹介しよう。弟子のタイガだ」
タイガが右腕を突き出した。筋肉質でゴツゴツした手だが確かに人間の手だ。鋭い爪を見たら普通の人間は握手を躊躇するだろう。アリスがその手を握り返すと、タイガは低い唸り声を上げた。
「彼は新進気鋭のレーサーだ。次のチャイニーズダウンヒルでデビューする。すごいデビュー戦になるだろう」
「彼は……」
アリスの言いたい事はわかっているとでもいうように、ガイルは手を振った。
「ああ、彼はホワイトタイガーの遺伝子を組み込んである。おかげで普通の人間にはない俊敏さと集中力を手に入れた」
つまりガイルは遺伝子工学を駆使して動物の運動能力をタイガに組み込んだのだ。そしてそれが完成したので、昨夜は大切なウィスキーの栓を切ったということだ。
「私の研究にとやかく言う連中も多い。だが、彼は自ら進んで被験者になってくれた。私が正しいことはすぐに次のレースで証明されるだろう」
動物の遺伝子がもたらすのは恩恵だけではないようだ。アリスは昨夜のヤギの悲鳴を思い出した。しかしそれはアリスがとやかく言う話ではない。アリスは充電をしてもらったらすぐにでもこの島を出ようと決めた。
アリスが充電の事を伝えると、ガイルは頷いてから一つの条件を付け加えた。
「充電はしよう。ただ、一つだけ条件がある。タイガとチャイニーズダウンヒルで勝負してほしい。勝っても負けても充電はしよう。ただ、拒めば充電はしない」
なるほど。実践の相手が現れるのを待っていたということか。次の島まで電池は持つだろうがぎりぎりの状態にはしたくなかった。負けてもいいのなら問題はなさそうだ。アリスはガイルの条件を飲んだ。
チャイニーズダウンヒルは太古の中国が発祥だ。最初は山を降るレースだったが、いつしか山は不要になり、上空20キロメートルからエアライダーで高速降下するレースになった。地表ぎりぎりの5つのリングを最初にくぐり抜けた者が勝者である。そしてルールはないに等しく、ほとんどの妨害行為が許される。ただ、エアライダーにはコンプレッサー以外を装備できなかった。
島の突端にある5つのリングの上空20キロメートルでタイガとアリスは待機していた。遥か下方ではリングが赤く光っている。これが黄色くなり、青に変わったらスタートだ。
リングが黄色に変わる。アリスはガイルの赤いマシンでコンプレッサーの調子を確認する。すぐ横でタイガが雄叫びを上げていた。
リングが青に変わる。スロットルを全開にしてコンプレッサーに最大出力を与える。すぐに降下が始まり風圧で体が浮き上がるのでエアライダーを両足でホールドする。初めてのスタートにしてはまずまずだ。リングに向かって真っ逆さま。どんどんとスピードが上がっていった。
だがタイガのエアライダーはもう徐々にアリスを引き離し始めていた。地上までは3分弱で勝負がつく。ただ後ろにくっついてレースを終えてもいいのだが、せっかくなので勝負に出る事にする。アリスは空力に合わせて姿勢を変えた。徐々にタイガに近づき始める。
するとタイガのマシンからスモークが吹き出した。コンプレッサーと水を使って目隠しを作り出しているのだ。だがアンドロイド相手に通用する手ではない。アリスはスモークを物ともせず降下を続ける。視界が開けると目の前にタイガがいなかった。
直後真横から強烈な体当たりを喰らう。バランスを崩してスピードが落ちる。その隙にタイガが加速して離れていく。アリスも負けじと加速してスリップストリームに入り込む。
アリスのマシンがタイガのマシンに吸い寄せられる。そのまま先端を激突させた。
だがタイガはそれを待っていたかのように反動を加速に変えて離れていく。
第1リングを通り抜ける。第2リングはやや右にずれている。ので軌道修正する。すぐに第2リング、左に軌道修正して第3リングと通過していく。このままでは負ける。咄嗟にアリスはスロットルを固定にするとハンドルから手を離し、マシンの尾翼まで体をスライドさせた。尾翼に握力のみでしがみつくとマシンと縦一列になり空気抵抗を最小限にした。すると一気に加速した。
タイガが首を振り一瞬で状況を理解した。第4リングを通過したところで勝負をかけてきた。10メートルのリングを時速500キロメートルで通過しながら幅寄せをしてきたのだ。タイガのマシンがほんのわずかアリスのマシンに触れた。
それだけで十分だった。
アリスのマシンは軌道を外れリングの外側を通過したかに見えた。運が悪かった。
チャイニーズダウンヒルのレーサーに必要なのは動物的な直感や反射神経だが、それ以上に運の良さが重要だ。どんなに早くても運が悪いレーサーは勝てない。生き残れない。
アリスのマシンはリングの外側に激突した。エアライダーは衝撃でバラバラに分解しアリスは空中に投げ出された。このスピードで海に落ちれば破壊的なダメージを受けるのは間違いなかった。高速コアが防御策を計算していくができることは体を広げてスピードを落とすのがせいぜい。3秒後にはアリスはバラバラになる運命だ。
第5リングの横を通り抜けた時だった。アリスの腕を何かが掴んだ。タイガであった。タイガはレースを捨ててアリスの救出を選んだ。急激な旋回Gに耐えながら海面すれすれを減速していく。スピードが落ちたところで向きを変えて島に戻り浜辺に着地した。
「ありがとう。助かったわ」
喋れないのかタイガが低く唸る。
「でもあなたも失格になっちゃったわね」
向こうからガイルが慌ててやってくるのが見えた。タイガが気まずそうに下を向いた。
息を切らしてやってきたガイルはいきなり杖を振り上げたかと思うとタイガを打ち据えた。
「この馬鹿者が。レースを捨てやがって。そんなことで勝てるわけないだろうが。何のためにアンドロイドを選んだと思ってるんだ」
アリスが杖を掴んだ。
「やめてください」
「喧しい。お前たち機械に何が分かる。私たち人間は進化しないといけないんだ。進化しないとこの星に居場所がなくなってしまうんだ。そのためにはタイガが勝ち続けてみんなに希望を与える必要があるんだよ。こいつは勝たなきゃいけないんだよ。それこそが、それこそが……」
失格がよほどショックだったのか、言葉が終わる前にガイルは力を失ってへたり込んでしまった。
「そんなやり方って正しくないと思います」
「じゃあどうするんだ。アテナスは私たちを機械にしてしまおうとしている。私は機械の中になんぞ入りたくはない。そんなものを生物とは呼べない」
アリスが危惧していることをガイルもまた危惧しているのだ。政府アシストコンピューターのアテナスは機械化こそが人類進化の第一歩と考えて、急性に政策を推し進めていた。だが、そうなった場合、それは人類という種がなくなることを意味している。機械に人間の意識を載せた物を生命と呼べるのか。それが進化なのかアリスにはわからなかった。
「私はもう少し議論に時間をかけるべきだと思ってるの。そろそろMシティに行かせてくれるかしら」
「好きにしろ」
ガイルはなおざりに腕を振った。勝手に充電して出ていけという意味だろう。
アリスは二人に礼を言うと研究所に向けて歩き出した。一歩一歩砂を踏みしめて進んだ。その踏み出す一歩が次第に重いものになりつつあるのを感じた。
終
『プロローグW』はガイアフロー社が静岡蒸溜所で生産するシングルモルトウィスキーです。生産開始は2016年と比較的最近でKとWと呼ばれる2基のポットスチルのうちWで蒸留をしています。Wは世界でもめずらしい薪による直火蒸留機です。直火による800度の熱が香ばしく力強い味わいを作るのだそうです。またKはかつて軽井沢蒸溜所にあった伝説のポットスチルを移設したもので、2020年に発売されたウィスキーはすぐに完売となったようです。注目度が想像できますね。
静岡蒸溜所ではプライベートカスクを募集しています。麦芽を海外製、国内製と選べる上に蒸留方法もKとWで選べるようです。50リットルの樽で3年熟成をします。ウィスキーは樽ごとに味の変化が出ますので、世界で一つだけの樽ができるわけです。50リットルの樽からは約50本ボトル詰できるそうです。お値段もまあ現実的といえば現実的。私には無理ですが。
さて、今回のお話はプライベートカスクを登場させました。一つ一つの樽が全て違ったウィスキーになるので、その個性の出方が生物に似ていると思うのです。生物というのは同じ傾向はあっても同一ではないですよね。かならず個性があります。現代社会はその個性を生活にまで広げてパーソナライズしていますが、それをつきつめるとタイガのような個体が現れる可能性はあると思います。そしてその行き過ぎたパーソナライズの先は何が待っているのでしょうか。