野獣復活
オスティアリウスはジュノーに向けたアンテナを月上空に残すと、ゆっくりと第501坑に降りていった。第501坑を覆う透明なドームの頂点部に着地してアテナスから受け取った覚醒コードを内部に向けて流し始めた。覚醒コードの効果はすぐに現れ始め、あちこちで怒号や悲鳴が響いた。オスティアリウスは作戦が始動したことをアテナスに連絡し次の行動移った。
想定通り第501坑の中は混乱が生じ始めていた。
ベッドで妻の横に寝ていたカールは目を覚ました直後に覚醒コードを受け取り、自分が何者であるのか思い出した。カールはアフリカの風戦士だった。スリーパーなのでそれを完全に忘れた状態で、妻と共にルナ解放戦線の兵士として毎日アフリカの風戦士狩りに奔走していたのだ。
それがたった今スリーパーから覚醒させられた。戦士として行動しろと。
つい先日は息子のエリオットにアフリカの風戦士の嫌疑がかかり、カール自ら拷問と言える事情聴取を行った。エリオットは涙ながらに無実を訴えたが、彼の言葉には信憑性がなく、カールも妻も彼の言葉を受け入れることができなかった。結局エリオットは拷問の傷が元で獄中死した。
だが、たった今カールは全てを思い出した。
カール自身がアフリカの風戦士であり、エリオットもまたそうだった。妻だけが本当のルナ解放戦線の兵士という歪んだ家族。
同胞である息子を敵兵である妻と死に追いやったという事実はカールを打ちのめした。カールは己の行為に耐えきれなくなり、ベッドを飛び出すとそのまま深い立て坑に飛び込んだ。600メートルを落下する途中で自由の鐘と呼ばれる鐘に激突し、悲劇の音を響かせてから坑底で踏まれたトマトのように潰れて死んだ。
カールのように自ずから命を絶つ者はまれであった。大半は自分の責務を全うするために武装蜂起の集合場所に集まるか、銃を手に取り本来なら身近な人である知人にその銃口を向けた。
自由の鐘の音を合図に、アフリカの風とルナ解放戦線のぶつかり合いが否応無しに始まった。
大半の市民は下級市民としてルナ解放戦線に管理されている。だが、戦闘が始まったとなると安全は保証されない。彼らのために武器を手に取る理由などない。多くの市民は戦闘に巻き込まれるのを恐れ、肉体を捨てて完全意識に融合する道を選んだ。完全意識に融合すれば、苦しみも悲しみもない。それに完全意識に融合すれば、人間は神になれるという噂も流れていた。ルナシティに残らなければならない理由はほとんどなかった。
アリスのいる第369坑でも散発的な戦闘が繰り広げられていた。銃撃音が響き爆発による地響きが伝わってきた。
「どうするつもりじゃ」
入り口を厳重に塞いているアリスにゲン爺が聞く。
「私のウィスキーには誰も触らせないわ」
戦闘が始まれば略奪が起こるのが世の常だ。ようやく熟成が進み始めたウィスキーを奪われては敵わない。労力を惜しまず作り上げたウィスキーはアリスの分身とも言える。
「それならわしの別荘に隠したらどうじゃ。あそこはトンネルでつながっていない。しばらくは安全じゃろう」
ゲン爺は下級市民になる前は高い地位にいたため別荘を所有していた。
「でもどうやって運ぶの? エアカーでは外を走れない」
「だてに顔役やっていたわけじゃないわい。こんな時のためにバギーを隠してある。それに積み込めば運べるじゃろう」
ウィスキーは家具をバラして作った樽が3つとボトルが20本程度だ。蒸留に使うポットスチルは人の背丈ほどしかない小型である。なんとかなりそうだ。アリスは運び出すための荷物を揃え始めた。
ゲン爺のバギーは拳ほどのモーターに車輪が4つついただけの代物だった。バギーというより子供用のカートだ。スピードも歩くより速い程度である。それでもないよりはましだ。後ろに荷台をくくりつけ、樽三つとポットスチル、そして細々とした品を積み込むと、まるで西部開拓時代に新天地を探すオンボロ馬車よろしく別荘へ出発した。
第369坑を脱出してプトレマイオスクレーターをのろのろと進む間、旧時代的なバギーの車輪がレゴリスの砂塵を巻き上げる。キラキラと光を反射するそれは否応無しに二人を目立たせた。それでも戦闘中に外部を監視する余裕はないのか、何事もないままかなりルナシティから離れることができた。
ところが、一安心と思って気を緩めた矢先にバギーの進路が弾けて砂塵が飛び散った。何者かが左手から攻撃を仕掛けていた。アリスは慌ててバギーの進路を変更し、大きな岩の影に身を隠した。
岩の影から確認するとこちらに向かってコンテナトラックのような大型輸送車が迫ってくるのが見えた。そのスピードはあきらかにアリスたちのバギーよりも速い。とうてい逃げ切れない。
コンテナトラックは大岩の手前に横付けすると、いくつかあるコンテナの扉を一斉に開いた。開いた扉からは全身が真っ白で裸同然の兵士がわらわらと飛び出してきた。呼吸用のヘルメットは装備していない。第1坑にいたゾンビたちだ。ゾンビといってもカーボンの骨格にポリマーの筋繊維。表皮はグラフェンでできていて銃弾も貫通しない。そんな連中が30人はいるだろう。全員がアサートライフル銃やレーザー銃などを持ち、動きは素早くて統制が取れている。前に第1坑で見た時のように無秩序でもなければのろくもなかった。明らかに訓練された動きでアリスたちはたちまちにして最強の軍隊に取り囲まれてしまった。
「どうする?」
「どうもこうもない。降参するしかないわ」
「すまん。わしはあんたみたいに強くないから」
「謝らなくていいわ。私たちアンドロイドは人間を守るためにいるんだから」
アリスたちが完全に包囲されたとわかると、コンテナトラックの運転席からリーダーと思しき人物が降り立った。その人物を見てアリスは驚きの声をあげた。
「コーネル」
呼吸用ヘルメットを被っていても、その毛むくじゃらの顔を見間違えるはずがなかった。コーネルはアテナスが作り出したチンパンジーベースのポストヒューマンだ。知能も運動能力も人間を凌いでいる。そしてコーネルは月探検のために送り出され、ただ一人月面に降り立ったのだが、裏切ったゾンビたちに襲われて死んだと思っていた。それがこうして生きている。しかもふたたびゾンビ軍団のリーダーとなっていた。
「あなた、ゾンビたちに見捨てられたのじゃなかったの?」
コーネルはヘルメットのこめかみのあたりを突いた。
「かれらが本当に知恵のある者を選んだというだけだ。前回はあんたらにまんまとしてやられたが、今回は俺の勝ちのようだな」
コーネルは見事に発達した胸を反らしながらアリスを見、ゲン爺に視線を移し、そしてバギーの荷物を見た。
「何を運んでいる」
「モートラック」
ゲン爺がどういうつもりだという視線を送ってくる。
「そいつは一体何だ? 水か」
アリスは肩をすくめた。
「野獣にかけた冗談よ。私が自分で蒸留したウィスキー。味については聞かないで」
コーネルはアリスの言葉の意味を理解できず眉をひそめた。そしてバギーに近づくとひとつの樽の栓をいきなり抜いた。
「ちょっと…」
口からウィスキーが勢いよく吹き出す。そのウィスキーにプローブをつけるとヘルメット内でデータ再生して味を確かめた。始めての味だったのかコーネルは顔をしかめた。
「なんだこりゃ。人間はこんな物を飲むのか。イカれてる」
コーネルはゾンビの一人に手を振って合図した。
するとそのゾンビが銃を構え樽に狙いをつけた。
「お願い。やめて。そのウィスキーを作るのにどれだけ苦労したと思っているの」
「どうせ苦労するなら美味いものをつくれ。やれ!」
コーネルが命令するとゾンビが銃を連射した。銃弾に打ち砕かれた樽が弾け飛びウィスキーが月面に四散した。
「なんちゅうことをしやがる。悪魔め」
ゲン爺が隣で怒りに震えていた。
つづいて数名のゾンビがアリスに銃を向けたまま取り囲んだ。
「お前は俺と一緒に来るんだ」
「何のために」
「こちらの切り札さ」
コーネルはそう言ってにやりと笑った。
ゲン爺は嫌な予感がした。こういった場合残された者の運命は決まっている。
だが、ゲン爺の予感は外れた。コーネルたちはアリスを引き立ててコンテナトラックに押し込むと、利用価値のないゲン爺のことなど忘れてしまったかのように置き去りにして去っていった。どうやらルナシティに向かうようだ。
「助かった。それにしてもひどいことしやがる」
そう言いながらゲン爺はバギーの下に手を差し込んだ。取り出したものは片手に抱えられるほどの小ぶりの樽だった。それ以外の樽は全て完璧に破壊されていた。
「隠れて飲もうと思っとったが、いきなりプレミアウィスキーになってしまったのう」
ゲン爺はしばらく破壊された樽とポットスチルを眺めていたが、やがてバギーの運転席に乗り込んだ。一度だけアリスが連れて行かれたルナシティの方向に目をやりバギーを発信させた。後は真っ直ぐ前を向いて振り向かなかった。
アリスを拉致したコーネルはルナシティに乗り込んで一気にルナ解放戦線とアフリカの風の両方を叩くつもりだった。作戦は考えてあった。人間は酸素がなければ動けないがゾンビ軍団は酸素を必要としない。そこをうまく利用するつもりだった。
アリスについてはアテナスとの交渉に使うつもりだった。なぜだか分からないが、アテナスはアリスのことを欲しがっていた。しかも生捕りにしたがっている。
「アンドロイドを生捕りだって?」
コーネルは声を出して笑った。
アリスは自分が怒っているのだと感じた。これが怒りという感覚。全ての電流が逆流したような感覚。身体中のコンデンサが帯電しすぎで熱を持ち弾けそうになり、必要以上にアクチュエーターに力がかかっている。今すぐこのコンテナを粉微塵に破壊してしまいたい。だが、それは今ではない。
確かに丹精込めて作ったウィスキーを全て駄目にされたのは腹立たしい行いだ。とはいえアリスが怒っているのはコーネルだけにではない。アフリカの風、ルナ解放戦線、夢郎、そしてアテナス。それら全てに腹を立てていた。アリスの戦争はとっくの昔に終わった。今はバーデンダーでありブレンダーである。銃も戦闘も無関係な世界にいるはずなのに気がつけばこうして戦闘の真っ只中に引きずり出されている。いくら逃げても運命はアリスを見逃さなかった。アリスは理不尽な運命をも呪った。
だからアリスは運命に戦いを挑むことにした。運命に関連する連中。自分を拉致しているコーネル。アフリカの風の新しいリーダー、オズワルド。ルナ解放戦線リーダーのナルミ。自分を深みに突き落とした夢郎。そしてそもそもの根源で人類進化計画などという途方もない夢を見ている機械、政府アシストコンピューターのアテナス。彼らを徹底的に打ちのめさねばこの運命は終わらない。
まずはコーネルだ。30人のゾンビ軍団がいるコンテナを突き破って運転席まで辿り着くのは難しい。だが不可能ではないはず。かれらは首を切断すればおそらく停止する。カーボンでできた骨格はレーザー銃を奪えばなんとかなるかもしれない。それには何かきっかけがいる。全員の気が逸れるような何かが。
コーネルは前方に立ち塞がる人を見つけた。ヘルメットを被っていないところをみるとアンドロイドのようだ。たった一人で進路に立ち塞がり、このコンテナトラックを止められるとで思っているのだろうか、近づいているのがわかってもまったく動く気配がない。
「いいだろう。何者か知らんが踏み潰してやる」
コーネルはアクセルを踏み込んだ。コンテナトラックのモーターが唸りをあげる。
前方のアンドロイドはまるで中国拳法でもするような構えで右手を前に伸ばし手首を立て、左手を後ろに伸ばして同じように手首を立てた。正面と後ろに向けた手には特殊なグローブが装着されていた。
コンテナトラックはますます加速しついにアンドロイドを踏み潰した、と思った瞬間、突然見えない壁が現れたかのようにコンテナトラックの運転席がぐしゃりと潰れ衝撃でコンテナが大きくはねた。
何が起こったのか全く分からず、コンテナの中の全員が前方に投げ出された。アリスはこの瞬間を逃さなかった。隣で銃を構えていたゾンビ兵に襲い掛かりレーザー銃を奪い取った。そして前方に投げ出されながらも周りにいるゾンビ兵の首を狙ってレーザーを連射した。
コーネルは強い力でフロントガラスに叩きつけられたが、辛うじて運転席から這い出して地面に転がった。
「一体何が起こった」
アンドロイドがやってきてコーネルを見下ろしている。
「お前は何なんだ」
「私はオスティアリウス。お前にやってもらうことがある」
「ふざけるな。誰だか知らんが、お前が敵だということはわかった。協力なんかするもんか」
するとオスティアリウスはコーネルのヘルメットを踏みつけた。底部からブーンという耳障りな振動が伝わってきて、ヘルメットが軋み急に頭が鉄のように重くなって地面に押し付けられた。
「ぐああ。痛い。やめてくれ」
「私は手足に重力コントローラーを装備している。お前の頭をカボチャのように潰すのは簡単だ」
コンテナトラックを押し潰したのは他でもない横方向に向けられた重力だ。コンテナトラックは自重でひどく潰れ横倒しになっていた。
そのコンテナからゾンビ兵たちが這い出してくる。だがまだ体制を立て直せずうろうろとするばかりだ。
そのゾンビたちをすり抜けるようにして走る者がいた。アリスだった。
アリスはレーザー銃をオスティアリウスに向けた。が、引き金を引く前に後方に数十メートルも飛ばされた。オスティアリウスがアリスに手のひらをむけていた。
アリスは空中で体勢を入れ替え着地と同時に再び駆け出そうとした。しかし着地もしないうちに今度は100メートルも後方に吹き飛ばされてしまった。その際に手を離してしまい、レーザー銃はさらに後方だ。正面から向かっていっても勝機は薄い。アリスはルナシティに視線を向け、別の方法を取ることにした。
いつの間にかゾンビ兵が隊列を作っていた。彼らの頭蓋にはチップが埋め込まれていて、チップに命令すれば簡単に制御可能だ。今ゾンビ兵はコーネルに銃を向けている。コーネルはまたしても彼らに裏切られたのだった。
コーネルが連れてこられたのはオスティアリウスが最初に降り立った第501坑だった。坑内は十分すぎるほどに混乱していて、あちこちで銃声が響いていた。オスティアリウスが合図を送ると同時に、第501坑を覆うドームをぐるりと囲むように配置された排気バルブが一斉に開いた。排気バルブからは勢いよく空気が排出されていく。坑内の混乱は戦闘から一気に窒息の恐怖に取って代わられた。同じようなことがルナシティの1000近くある坑で一斉に行われた。
2度目のオスティアリウスの合図で空気が抜け切る前に排気バルブが閉じられた。
「これで皆お前の言葉を聞く気になっただろう。さあ、メッセージを伝えるがいい」
コーネルのヘルメット内部でブルーのランプが点灯する。リンクがつながったという意味だ。今ルナシティの全坑でコーネルの巨大な映像が投影されているはずだ。その毛むくじゃらな顔から覗く怒りに満ちた目や、凶暴さを窺わせる突き出した顎をあらゆる市民が注視している。
コーネルは思った。俺はこんなことを言うためにここへやってきたのか? それでもコーネルは口を開いた。
「俺たちが地球の支配者だ」
そう言った彼の拳は怒りで震えていた。
つづく
『モートラック』はスペイサイドはダフタウン地区で作られるシングルモルト・スコッチウィスキーです。歴史も古く1823年の設立で、その強烈な個性ゆえに「ダフタウンの野獣」と評されています。『モートラック』の特徴的な個性の理由は蒸留にあります。2.81回蒸留という非常に特殊な蒸留を行います。蒸留には6つのポットスチルを使用しますが、これらをたくみに組み合わせて再蒸留を行うため2.81回という奇妙な数字になるのだそうです。この蒸留の複雑さは職人でも理解するのに半年かかるほどだとか。再蒸留に使用するポットスチルのひとつは「小さな魔女」というあだ名がついているそうです。
さて、アリスのシリーズもいよいよ大詰めに入りました。今までは一話完結でウィスキーを紹介しつつ物語を進めてきましたが、今回からは最終話まで続きものとして話を進めます。100話完結を予定していますが残りのお話で誰に何が起きるのか。アリスの運命はどうなるのかというのを一気に書き上げる予定です。残りのお話をどうぞお楽しみに。