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レイヤーの幽霊

 夜の十時をまわってアリスの店は一人の客もいない。急ごしらえのカウンターバーには四つのスツールが静かに並んでいた。カウンターの両サイドには控えめなランタンが一つずつ、柔らかい光を投げかけている。波の音だけが唯一時が止まっていないことを教えてくれた。

 ここはアリスの無人島バー。政府管理外地区にある小さな無人島にカウンターを置いただけの小さな酒場。元々アリスは深海にあるカプセルバーでひっそりと酒を提供していた。しかし先日、店をテロリストに破壊されてしまった。やむなく残った資材をかき集めて、修理の間ここで営業しているという訳だ。政府管理外地区というだけあり、政府と関わり合いたくない客がやって来ることがある。総じてそういう客は厄介事を持ち込んでくる。ここで店を再開して一週間が過ぎようとしているが、今のところ客はなく厄介事もない。

 無駄な電力消費を抑えるためランタンを消すとほぼ真っ暗闇となった。だからといってアンドロイドに不都合があるはずもない。頭上には満天の星空があり、その星々は水平線で切り取られたように下半分は真っ暗な海になる。その真っ暗な海は飽くことなく波の調べを奏で続けていた。背後には砂と岩と少しばかりの草むらがあるだけ。ヤシの木一本生えていない。海岸線を歩けば五分で一周してしまう。そんな小さな島でアリスは一人客を待っていた。

 黒い海を見つめていると、少し先に揺らめく光が見えた。

 その光はゆっくりと島に近づいてくるが、どうも船の灯りにはみえない。小さすぎるのだ。カウンター脇のランタンより小さな灯りだ。その灯りがぼんやりと何かを浮かび上がらせた。どうやら人の顔らしい。真っ白な顔だけがぽつりと海に浮かんでいた。

 来客?

 アリスは再びランタンの灯りを点灯させた。もし店に来る気があるのなら灯りが必要と思ったからだ。

 だが、その人物は一向に近づいてくる気配がなかった。それどころか波が揺れるに任せ、右に左に大きく揺らめいていた。そうしてしばらく揺れていたかと思えば、唐突に灯りが消えて顔も暗がりに溶けるようにして見えなくなった。それきり顔が現れることはなかった。

 翌日の夕方、初めての客がやってきた。カプセルバーに時々やって来ていたキャメノスという男だ。根っからの風来坊でちょっと人には言えないような商売をしている。人の本性を暴くような仕事をしているせいか、時々こうしてやってきてアリスに鬱憤をぶちまけていった。

「転送エレベータはいつ直るんだ。あんな小さなエアライダーで海を渡ってくるのは骨が折れる。それに屋根もないんじゃあ熱くてかなわないぜ」

「ご注文は?」

 アリスは愚痴を聞き流すとメニューを渡した。あるのは数種類のビールとウィスキーだけだ。クーラーボックスで保管できるものだけということだ。

「おいおい、これだけかよ。全く」

 キャメノスは呆れ顔を見せながら、バッグから一本のボトルを取り出してカウンターに置いた。

「こんなことだろうと思ったから、いいものを持ってきてやったぜ。こいつは新装開店の記念だ。受け取れ」

 グリーンのボトルに白いキャップとラベル。ラベルには『LAPHROAIG 』の文字。伝統的なスコッチウィスキーの一本である。今どき本物のウィスキーは値が張る。どうやって仕入れたのか気になった。

 すると察したようにキャメノスが両手を突き出した。

「勘違いするなよ。盗んだわけじゃねえ。仕事の依頼人が報酬で置いていったものだ。本来なら現金を寄越せというところだが、まあ、たまにはこういうのもいいかと思ってな」

 キャメノスがウィンクを投げてよこす。相手が人間ならばその意味は恐らく一つ。

「なぜ私にくれるの?」

「知っているか? こいつが蒸留されているアイラ島では『簡単にはダチにならないが、一度ダチになったら一生ダチだ』って言葉があるんだ」

 そんな雑な言葉じゃないと思うが意図は伝わった。アリスはキャメノスを穴のあくほど見つめた。いよいよキャメノスが尻をもぞもぞと動かし始めたころに、静かに右手を差し出した。

「ありがとう。友達として頂くわ。でも次回からお代は頂くわよ」

 それからキャメノスは自ら持ってきたウィスキーボトルの半分を空け、酔いつぶれて眠ってしまった。辺りはすっかり暗くなり、満天の星と真っ暗な海と、打ち寄せる波の音だけ。小さなランタンが照らし出す世界は狭く、暗がりに浮かぶカプセルのようだ。

 どれほど経ったのか暗がりに小さな灯りが揺らめくのが見えた。昨日のことを思い出した。

 始め灯りは弱々しく揺らめいていたが、やがてそれは急速に強さを増しまばゆいばかりになった。耳を聾するばかりの排気音を放ち、島の真上で停止すると強力なサーチライトでバーを照らした。エアタクシーだった。

 エアタクシーはゆっくりと高度を下げると、砂を撒き散らしながらバーの脇に着陸した。そして中から一人の男が現れた。

 男は白い背広を優雅に着こなし、白髪がやや目立ち始めた頭にパナマ帽を被っていた。温厚そうで小さな目と口ひげから気のいいおじさんを想像させるが、砂を撒き散らしながらエアタクシーを着陸させるところなど傲慢な男のようだ。

 アリスはその男の顔をみてすぐに合点がいった。男はスコットレイヤー設計者のスコット・バジリだった。レイヤーマスターの登場だ。

「喜び給え。一時的にだが、この店はスコットレイヤーに組み込ませてもらった。誰もが羨むレイヤーだぞ。さて、今、ここで飲める一番高いものをもらおうか」

「一番高いのはこいつだ」

 砂を被ったキャメノスが男の前に『LAPHROAIG』を怒りにまかせて置いた。気持ちよく寝ていたところに砂を駆けられたのだから無理もない。

 スコットはキャメノスの姿を見ると笑いながら謝罪した。

 今どき人々はたいていどこかのレイヤーに所属している。金持ちは金持ちのレイヤーに、貧乏人は貧乏人のレイヤーに。それらのレイヤーではそのレイヤーのレベルに応じた視界が提供される。そしてそのレイヤーをどんな風に見せるか設計するのがレイヤーマスターである。金持ちが集まるハイレイヤーでは、優雅でハイセンスな街並やファッションしか存在しない。そしてそれぞれの視界をコントロールすることで、気に入らない相手が目に入ることもなく、そうした人物に出会うこともない。レイヤールールに身を委ねれば、不愉快な思いをすることは決してないということだ。レイヤーに属する人々が、レイヤーを超えて出会うことがないよう厳密に行動制限するのは、設計者であるレイヤーマスターと、バイオチップを管理する政府アシストコンピューターのアテナスである。両者がタッグを組むことで、レイヤーを超えた犯罪は事実上皆無になった。表向きは。

「で、そのハイレイヤーのレイヤーマスターがこんなチンケな店に何の用だ」

「ちょっと、チンケは余計よ」

 少し前までいたずら小僧のように眉を上下させていたスコットは、急に鎮痛な面持ちになった。

「私のレイヤーに幽霊が出るという噂が立っている。レイヤーを設計したのは私だ。幽霊なんか作った覚えはないし、レイヤー構造をすべて調査しなおしたが、そんなものはどこにも存在しない。ありえない」

「でも火のない所に噂は立たないっていうしなあ」

「火なんてない」

 スコットがカウンターを拳で叩いた。

「でもそれをどうして私に話すのですか」

 アリスが尋ねた。

 スコットは意外そうな顔をした。

「斬霊剣を引き継いだのは君だろう。今どき誰でも知っている。隠し立てしても意味がないぞ」

 斬霊剣というのは霊と目されるエネルギー場を切り離すことができる剣である。そして霊とは強い意志がその場所や誰かのエネルギー場に歪みを生じさせてしまう現象である。その歪んだ場に補正エネルギーを流し込むことで歪みを正す。簡単に言えば憑き物落としを行うための剣だ。アリスは先代から斬霊剣を受け継いでいた。

「わかりました。まずはお話をお聞きしましょうか。その噂とはどういった内容なのでしょうか」

 スコットの話では真っ白い顔だけが浮遊するのを見た人がいる。その顔は恨みと憎しみで醜く歪んでいて、宙を飛び近づいて来ると目の前で消えるということだ。

 アリスは昨夜のことを思い出した。海上に浮かんだ白い顔。

「一番最近の目撃者と話せますか?」

「私だ」

「えっ?」

「一番最近の目撃者も、一番多く目撃しているのも私だ。その顔に見覚えはない。だが恨まれる覚えなら腐るほどある。私のレイヤーに入れてくれと泣きついてくる輩はたくさんいるんだ。そんな奴らをいちいち相手していられるか。私のレイヤーはハイレイヤーなんだ。ふさわしい人間だけの洗練された世界なんだ。だが、幽霊騒ぎのせいでレイヤーを出ていく者が出始めた。冗談じゃない。幽霊なんかに私のレイヤーを汚されてたまるか」

「警察には行ったのですか?」

「警察は当てにならないからここに来たんだ」

「レイヤーの支配者も幽霊一人制御できないのか。笑わせる」

 キャメノスが鼻で笑った。

「君とは友人になれそうにないな。私のレイヤーから出ていけ」

 言った途端、キャメノスの姿がかき消えた。キャメノスという人物情報をレイヤーの構造から消したのだ。レイヤーから追い出されると見えないし接触もできなくなる。アリスたちの視界からはキャメノスが消え、キャメノスの視界からはアリスとスコットが消える。そしてお互い触れないようにバイオチップが制御してしまう。

「ちょっと。彼は友達なんです」

「ああいう野蛮な連中は嫌いでね。それより何とかしてくれないか」

 気に入らないが、野蛮というのはあたっている。二人が一緒にいていいことはないだろう。アリスは診断をすることにした。

 アリスの右目には重力場センサーが組み込まれていて、重力の僅かな違いによりエネルギー場を読み取ることができた。人には人の、人に取り憑く物にはその物特有の形があった。もし何かに取り憑かれていればその特徴がエネルギー場に現れる。

 だが、スコットのエネルギー場に何かが取り憑いている特徴は見られなかった。スコットの性格に応じた特徴は見られるがそれだけのことだ。

 その事をスコットに伝えると、途端にスコットはアリスの無能を攻め、ありとあらゆる罵詈雑言を喚き散らし始めた。

「たった一瞬でもスコットレイヤーに組み込んでやったのに、この体たらくはなんだ。ポンコツめ。貴様ななぞ溶かされて1セント玉にでもなってしまえ」

 だが、その激しい言葉が急に止んだ。スコットは目を見開いて一点を注視していた。暗い闇に真っ白い顔が浮かんでいた。前髪を垂らし、憎しみで顔は歪み、その目は恨みの炎で燃えるようであった。その口はひたすら呪いの言葉を吐き続けて止まることがなかった。ひたすら「死ね、死ね」と言い続けているのである。

「あああ。助けてくれ。私は、私は悪くない。私が何をしたというんだ。恨むなら他の誰かを恨んでくれ。知らない、私じゃない。私は悪くない」

 白い顔はゆっくりとスコットに近づいてきた。そして砂の上で小さく丸くなるスコットの耳元に忍び寄り「死ね、死ね」とささやくのだった。

 アリスはカウンターバーの下から斬霊剣を取り出すと鞘から抜き放った。それは黒剣で鎬には細かな文字で般若心経が刻まれていた。その黒剣を白い顔に向かって横ざまに切りつけた。

 だが、剣は虚しく空を切り白い顔は消えてなくなっていた。後に残ったのは砂と鼻水まみれですすり泣く一人の老人だけだった。

 中一日おいてアリスはスコットを店に招待した。始めは渋っていたが、幽霊の正体を明かすと継げるとスコットはすぐに承諾した。

 スコットは西の水平線に太陽が沈むと同時にあの騒々しいエアタクシーでやってきた。先日のこともあり温厚な態度はすっかり消え失せ、傲慢な権力者然としていた。

「それで、結論をいい給え。犯人は誰なんだ」

「それは分かりません」

 途端にスコットの顔が怒りで紅潮した。

「私を馬鹿にすると後悔するぞ」

「馬鹿にはしていません。ただ、幽霊の正体がわかったののでお呼びしたのです。ひとつだけ確認したいのですが、幽霊が現れるのは夜中ではないですか?」

「だったらどうした」

 アリスは時計を指し示し、

「暗くなるまで少し待っていただけませんか」

 やがてすっかり日が落ち、ランタンの灯りだけがこの世界のすべてとなった。

 すると暗闇からぼうっと白い顔が現れた。あの幽霊だった。恨みに顔を歪めて「死ね、死ね」とつぶやいている。

「くそ。また現れたぞ。何とかしろ」

 アリスは黙って顔を見ている。

 すると、幽霊の顔の後ろにもう一つ白い顔が現れた。

 それを見たスコットは恐怖で最早立っていることもできなくなり、砂の上にへたり込んでしまった。

 二つの白い顔はふらふらと宙を舞いながらスコットに近づいてくる。

 それを黙って見守るアリス。

 誰も助けてくれないとわかると、スコットはポケットから小さな十字架を取り出して祈り始めた。

 すると一つ目の顔が憎しみから恐怖の表情へと変貌した。明らかに何かを恐れている。

 そして二つ目の顔は何かに興奮して目を見開いている。

 二つの顔はそのまま速さを増して近づいて来る。とうとうスコットのすぐ目の前にやってきた時、唐突にそれは起きた。

 暗がりから二人の男がランタンの灯りの世界に飛び出してきたのだ。そして後ろにいた男が前の男を組み敷いていた。後ろの男はキャメノスだった。

「捕まえたぞ幽霊男め」

 何が起きているのか理解できず呆然とするスコット。つい先程まで幽霊として宙に浮かんでいた顔が肉体を持って目の前にいる。

「何が起きている」

「レイヤーマスターのおっさんよ。こいつはな、幽霊でもなんでもなく、俺と同じアンダーグラウンドレイヤーのただのチンピラだ。レイヤージャンプしてあんたの前をふらついていただけさ」

「レイヤージャンプって何だ?」

 アリスは茫然自失のスコットに水を差し出した。

「これが幽霊の正体です。レイヤージャンプはこいういった人たちが、あなたのような人を陥れるために使う、レイヤーを違法に行き来する技術よ」

「そんなことはできるはずがない。私の居場所だって公開していない」

「そんな情報はどうにでもなるんだよ。俺たちの世界(レイヤー)ではな」

 キャメノスの膝の下で男がもがく。全身に光をまったく反射しないステルス性のバトルスーツを着用している。これで暗がりを歩けば首だけ浮かんでいるように見えるだろう。わかってみれば何てことないトリックだ。

「それより、何故スコットさんを狙ったりしたの?」

 アリスが幽霊男に詰め寄った。

 すると幽霊男はさも可笑しくて仕方ないという風に笑い出した。

「そんなことも分からないのか? それはな、そいつが金を持っているからだよ」

「金? たったそれだけのために私は毎日怯えていたのか?」

 途端スコットにキャメノスが刺すような視線を向けた。

「たったそれだけのために俺たちは命を張ってる。いいか。犯罪者はみんな同じことを考えている。持っているやつから奪えとな」

「そうならないためにレイヤーを作った」

「でもこれが結果よ。あなたたち人間が望んだ世界なの」

「そんな……」

 暗い砂浜の上で一人は組み伏せられながらも高笑いし、もうひとりはただうなだれて砂を見つめるばかり。アリスは黙ってそれを見詰めていた。

          終わり


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