若戸大橋と若戸渡船_北九州市_

北九州市・若松:芥川賞作家 火野葦平を生んだ街 - 「すっくと立ちはだかり、昴然と絶叫するさまは、ここに彦太郎は恰も一匹の黄金の鬼と化したごとくであった」(『糞尿譚』より)

日本文学・日本文化の研究者、文芸評論家として高名なドナルド・キーン教授は惜しまれながら2019年2月、日本人「キーン ドナルド」として亡くなられたことは記憶に新しい。ノーベル文学賞の日本人候補者の選定にも関わっておられたそうですが、最初に読んだ近代日本文学は『麦と兵隊』。火野葦平(ひのあしへい)が1938年に発表した日中戦争の従軍記だったという。この作品は翻訳され、多くの研究者に評価されています。ノーベル文学賞を受賞したパールバックも賞賛していたと伝わります。

Hino_Ashihei_朝日新聞社 - 『アサヒグラフ』 1952年11月26日号

(朝日新聞社 - 『アサヒグラフ』 1952年11月26日号)

火野葦平(本名 玉井勝則)は北九州市若松区(旧遠賀郡若松町)の出身。ウィキペディアによれば、1926年に早稲田大学英文科に入学し、同人誌などに作品を発表していました。1928年に兵役で大学を離れた間、父親に退学届けを出されてしまい、心ならずも除隊後は家業(船荷を運ぶ沖仲士の組頭)を継ぐことに。その後は港湾労働者たちの労働組合を自ら結成して労働運動に没頭し、1932年に検挙、拘留され転向したといいます。

1937年(昭和12年)に日中戦争に出征し、翌年に『糞尿譚』(ふんにょうたん)が第6回芥川賞を受賞。政治的寓意作品とされています。

要約:元豪農であった家の主が田畑を失い、人が嫌がる糞尿処理の仕事につくが妻子を食べさせることもできない。それでも必死に打ち込んでひたすら妻子のために耐え忍び人生をやり直そうとするが、信じていた人々に裏切られ、搾取から抜け出せない。抗う手段を知らず、どうすることもできない。脅しをかけてくるヤクザ者たちの嫌がらせに、どうしようもない怒りと激しい憤りが体の中から吹き上げ、ついに糞尿のひしゃくを手に立ち上がる。

 憤怒 の 形相 ものすごく、 彦太郎 が さん さん と 降り 来る 糞尿 の 中 に すっくと 立ちはだかり、 昴 然 と 絶叫 する さま は、 ここ に 彦太郎 は 恰(コウ)も 一匹 の 黄金 の 鬼 と 化し た ごとく で あっ た。 折 から、 佐原 山 の 松林 の 蔭 に 没し はじめ た 夕陽 が、 赤い 光 を ま 横 から さしかけ、 つっ 立っ ている 彦太郎 の 姿 は、 燦然 と 光り輝い た。

著名な文芸評論家である小林秀雄が中国の戦地に赴いて芥川賞の授賞式を行った逸話があります。1938年、火野は芥川賞受賞後、軍の指示で報道部に移り、「兵隊三部作」とよばれるようになる作品を発表し、国民的な人気作家となりました。同年9月には菊池寛、佐藤春夫、丹羽文雄、林芙美子ら流行作家がペン部隊として漢口攻略戦に派遣されています。

戦後は一転、「戦犯作家」として戦争責任を追及され公職を追放されました。公職追放が解かれた後は『花と龍』など北九州を舞台とした自伝的な作品を数多く発表し、東京と北九州を移動しながら執筆を続けたといいます。

自らの戦争責任を問い続けた火野。1960年1月24日、自らをモデルにした戦争責任に苦悩する作家を描いた大作『革命前後』を書き終えた3週間後、出版を目前に、53歳で命を絶ちました。「死にます。芥川とは ちがふかも 知れないが、或る漠然とした 不安のために」というメモが遺されました。

なお『糞尿譚』は古典として国内外で高い評価を受けており、電子書籍で無料で読めます。AmazonのKindleでは評価が高過ぎの5つ星(?!)。

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北九州市若松区  画像:KitaQ-UNIX)

北九州市育ちの芥川賞作家ですから、平野啓一郎さんの大先輩ですね。平野さんは愛知県蒲郡市で生まれて東筑高等学校の卒業生ですが。

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(福岡県立小倉高等学校 画像:Kugel)

みんながちょっとづつやさしくなれば、毎日の生活がちょっと楽になりますよね。ありがとうって言うとか、ニコっとしたり、駅の階段で蹴らない、とか。私はベランダの雀さんともっと仲良くなろうと奮闘中。最近はカマキリさんともお友達。みなさんはどんな感じかな?