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母のようになりたい②#21

検査入院中の6月2日、母は72歳の誕生日を迎えました。
ブリザーブドフラワーを持って母に会いに行ったのですが、
相変わらず、また年を取ってしまって、めでたくはないと言われました。
だけど、もっと見える場所にブリザーブドフラワーを置いてくれないかと頼まれ、花の大好きな母は凄く嬉しそうに見つめていました。
 
それから「もう一回、診療所にもどりたいなぁ。急に休んでしまって大丈夫やろうか」
とつぶやきました。姉も同じ診療所で働いていたので、姉を気遣っていたのだと思います。
 
「今はお母さんが患者さんなんだから、患者さんになっていいんやで。しんどい時は、しんどいでいいねん。やせ我慢せんでいい。」
いつも人のことばかり考える母に私は言いました。
 
「そうやね。私が患者さんやもんね。」と寂しげでした。
そして、不意に話を続けます。
「そうそう。大事なこと言うとかないと。今から口座の暗証番号いうから控えなさい。」
 
「縁起でもない。退院したら聞くしいいよ。」と断ると。
今、伝えておきたいと強引に教えられました。
そして、私が病室を出るとき、
「やせ我慢は親譲りだからあなたも気をつけなさい」と声をかけてくれました。これが、母と交わした最後の言葉になりました。
 
予定していた検査が全て終了し、主治医に呼ばれ病状説明を受けました。
頭部の画像を見た瞬間、愕然としました。
巨大な腫瘍が小脳をほぼ占拠しているではありませんか。毎日、頭の画像を仕事で見ていますが、後にも先にもあんなに大きな腫瘍を見た事がないです。
眩暈の原因は転移性脳腫瘍、筋肉痛だと思っていた脇腹の痛みも骨転移
おそらく新年は迎えられないだろうとの事でした。
余命も踏まえ告知はどうするかと主治医はおっしゃられましたが、母は強い人でかつ勘も鋭い人だから、ありのままを私の口から母に伝えますと答えました。そして、姉の強い意思を尊重して、最期は実家で看取りたいという希望も伝えました。
帰り際、母に声を掛けようと病室に行くと、母が熟睡している様子だったので、病気のことは明日話そうと家路につきました。
 
その帰り道、病院からすぐに戻って来るよう電話がありました。
慌ててUターンをすると、母は危篤状態。そのまま帰らぬ人になりました。
 
私達に、告知と言う辛い役割をさせることもなく、またこれから始まる大変であろう介護をさせてくれる事もなく、母は逝きました。
 
お洒落な母は死装束なんて着たくないだろうから、妻が母の日に贈ってくれた服を着てもらうことに。母は、昔からプレゼントを渡しても、使うのが勿体ないと言う人で、袖を通すのはこれが初めて。そして美容室に行ったばっかりの母は髪型もバッチリ。たくさんの人に顔を見られるのが分かっていたかのようです。



全て覚悟のうえ。そんな母の心残りはやはり仕事だったのでしょうか。
母が亡くなった日の夜明け前。母の鞄の中にあり誰も触っていないはずの携帯電話から不思議な事に診療所のスタッフに着信があったそうです。
最期に伝えたかった事。それは子どもへの遺言ではなく、仕事の引継ぎだったんでしょうね。何とも母らしいです。
 
数年前に、母に何かあった時に開封するよう言われていた手紙がありました。何でも挑戦する母がパソコンの練習がてら作成したものです。
そこには、
「2人には母親として反省ばかりですが、来世でも私を母としてよろしくです。厚かましいかな。でもよろしくです。」 
と書いてありました。                    
こちらこそお母さんに甘えてばかりで何も返せなかった。心配ばかり迷惑ばかりかけてしまってた。だけどお母さんに愛されて本当に幸せだったよ。ありがとう。
 
母が亡くなり2年たった七夕。
おばあちゃんの事が大好きだった年長さんになった娘の願い事は、
「パパがおばあちゃんに会えますように」でした。
自分のためじゃなく私のために願い事を使ってくれた気持ちが嬉しかった。
だけど願いごとが叶うはずもありません。だけど娘は
「お願いが叶わなかったわけじゃないよ。おばあちゃんは、遠い星からここに向かっているから間に合わなかっただけ。絶対会えるから悲しまないで。」
と言ってくれました。

そうだね。いつかおばあちゃんに会えた時に、頑張ったねって褒めてもらえるようにパパも頑張らないとね。おばあちゃんのように強いパパになるよ。

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