不完全な未来予測能力(あるいは生死の迷い)
人間を特徴付けるものは様々あるが、その中でも最も大きな特徴は優秀な脳であることは多くの人が認めるところだろう。その優秀な脳の機能の中に、未来を予測することが出来る力が存在する。1日以上の長期の時間を予測して行動を行うことが出来るのは実は人間のみなのだそうだ。
この能力があるから人間は様々な約束や契約などが出来る。明日、約束をして恋人に会うことが出来るのも、3年契約で大リーグに移籍することが出来るのも、国家予算が立てることが出来るのも、この未来予測能力があるからこそ出来るのである。
明日(以上の時間)の計画を他の人と立てられなかったら(人間以外の動物はこれが出来ないことが普通なのだ)、人間は今の文明を保持し続けることなど出来ないだろう。
けれど、この長期の時間を予測する能力は実のところ原初の人間に恐ろしい牙をも突きつけたのである。
それが『死』だ。
いや、正しく言い換えよう。「自分は必ず死ぬのだ」という認識である。
仲間の死を理解する動物は居るが、自分が必ず死ぬことを理解できているのは人間のみらしい。長期の時間を予測することが出来る故に人間は自己の死の認識を持ってしまっているのだ。「自分は必ず死ぬのだ」という認識は原初の人間を大いに苦しめただろう。
実際人類の文明行為は葬送儀礼から始まっているのである。世界中に存在する古代の巨大な墓の遺跡はおそらく「自分は必ず死ぬのだ」という自分自身の認識との戦いから産み落とされていったのだろう。「自己の死」を理解させてしまう未来予測能力。
自分は確実に存在しなくなるのだと理解してしてしまう能力。人間の未来予測能力は多分に今の僕たちの文明の大きな部分を支えている。しかし、その能力は「自分は必ず死ぬのだ」という恐怖と苦痛を真正面から突きつけてもいるのだ。
しかも僕たちは優秀な脳を所有することによって得た長期の時間を予測する能力があくまで不完全であることに気づかなければいけない。こう言えば実感できるだろうか?
僕は『死ぬ』、これは絶対だ。僕は人類で有るが『人類は確実に滅びる』、これも絶対だ。僕は地球上に生きているが『地球も無くなる』、これも絶対なのだ。しかしそれが具体的に何時であるのかを正しく予測することは出来ない。地球はいつ滅びるかを私たちは絶対に正しく予測出来ない。人類がいつ滅びるのかを私たちは絶対に正しく予測出来ない。自分がいつ死ぬのかだっておそらく正しく認識出来ない。
多分僕たちは確実にやってくる『死』を認識できるのだが、それが何時どのようにやってくるのかを正しく認識することが出来ないのである。いわば、人間の持つ未来予測能力とは極めて中途半端で不完全なものなのである。
いや、実は一人の人間の死ならば、自分が死ぬ日をほぼ確実に理解できる場合があり得る。死刑囚として執行日が決定した。あるいは不治の病に罹ったと分かった。こんな場合は確実に死ぬ日がほぼ特定できてしまう。
それでも、僕たちは死の直前まで逆転できる希望(生き残ること)を捨てることを出来ないだろう。いわば僕たちは完全で正しい未来予測能力などを持ちたくないという要素すらもっているのだろう。
本当の所生命にとって長期時間の予測能力というものは、生命である存在性に反する余剰物のかもしれない。
鳥はただ死ぬことが出来る。ただ懸命に生き、ただ命の終わりと共に静かに死を迎える。
僕たち人間は死ぬことを恐れ、過剰にもだえ苦しむ。全く逆に生きることを恐れて自殺してしまうことさえある(「自己の死の認識」を持たない存在は、認識自体が無い以上、それを選択することが不可能である。自殺もまた不完全な未来予測能力が引き起こす現象だろう。)
人間は、死をめぐって無駄に醜くあえぐ存在なのだ。たぶん余りにも不完全な未来予測能力を持ってしまうが故にだ。
いわば僕たちの長期時間を予測する能力は余りにも不完全で中途半端なのだ。そしてその能力の本質とは生命であることそのものに反する能力ですらあるのかも知れない。
「自分は死ぬ」という確実な未来を知ることは出来るのに、それが何時であるかを把握出来ない(恐怖ゆえに分かりたくない)程度の力しかない。余りにも不完全で中途半端な未来予測能力。
この不完全な未来予測能力はたぶん今の僕たちをとても強く呪縛しているんじゃないかと、僕は思っている。
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