酒カス、その自損表現について
ここ数年、X(旧Twitter)やInstagramなどのSNSで「酒カス」という表現を目にすることが増えた。
酒カス、酒粕ではない。
それは酒を飲んでばかりいる退廃的な者くらいの意味なのだと思うが、これを誇張し自称する際に「酒カス」と使っているように思う。
他にも酒クズとか酒ヤクザ(これは酒が強いことの他称になる)といった言葉もある(酒へのイメージが悪すぎる笑)。
このような酒飲みの蔑称としては歴史的にアル中という言葉があったように思うが、酒カスはそこから病理的な意味を脱色したような印象を受ける。
私はこれらの言葉は使わないようにしている。
なぜか。
さきほども書いたが、酒カスはアル中という言葉を脱色している分、使いやすい。逸脱的な飲み方をすることを酒カスと自称したり、あるいはそういうひとを酒カスと呼んだりすることは、その行為を面白がることになり、逸脱的な側面を見逃してしまうだけではなく、促してしまう危険がある。
つまり、たくさん飲んだり、酔ってダメになった方が面白いので、よりたくさん飲んだり、ダメになるまで飲んでしまったりする。
もちろんたくさん飲んだり、酔ってダメになったりすること自体が悪いわけではない。
酔い潰れたり、二日酔いになったりするのを悪とするのはいつでも社会の側である。150年前の日本の宴会では酔い潰れたり、二日酔いになったりすることが望ましかったことを思い出してほしい(覚えてるひとはいない)。
現代社会、特にSNSの世界では何事も過剰になりがちで、酒カスであることを自称することは、その過剰の構造に巻き込まれることになる。
酒カスであることに終わりはない。
酒カスを自称すれば、周囲からは「本当か?」という視線がなげられる。
酒カスを自ら証明しようとすれば、より飲み、より酔い、よりカスにならなければなり続けれなければならない。
それは最終的には破滅に至る(それこそが酒カスだから)。
もちろん、酒カスというのはただの表現コードであり、実際に飲んでいたり、酔っている必要はない。
だが、そういう言葉がもてはやされ、面白おかしく使われることで、実際に多量飲酒し「酒カス」になってしまっているひとたちがアルコール依存症およびその予備軍になっていることを覆い隠してしまう可能性がある。
自分のことを酒カスだと思い、SNSで毎日飲酒動画をあげているうちに依存的になってしまう、しかし指摘してくれる人間もおらず、飲む量が増え、酔っている時間が長くなり、気づいたら治療が必要なほど進行している、なんてこともあるだろう。
あるいは、毎日大量に飲酒しているひとが酒のつまみに酒カスYoutuberを自称するひとの大量飲酒動画をみることで、これは普通のことだと思い込んでしまう。気づいたら肝臓を壊していた、とか。
酒カスという言葉の流行にはそのような危険性があるのではないかと思う。
つらつら書いてきたのは酒カスへの複雑な思いがあるからだ。
酒は好きだし、破壊的な飲みもときには良いと思っている私だが、酒カスはあまりに破壊的だし、酔いへのリスペクトもない。酒とカスとが直結しすぎている。
その間には「酔い」という素晴らしい体験があるのに。
最後に自分の記事を紹介して終わる。