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ドライブインなみま|小説 アジフライ定食編


健康な土の上へ落ちた種みたいに胡座をかいて、不健康な煙突からあふれる煙みたいに紫煙を夜に蒔く姿は、野良だった。野生の青々とした閃光が放つ逞しい辛辣も、人肌の柔和な温もりが放つ愛日の甘露も、どちらも深く知り得たうえでどちらも自らが放棄して独歩する、野良。たぶん唐突に雨が降ろうが風が吹こうが雷が鳴ろうが動じることはないだろう。とはいえ、きれいに整えた髪、短く切りそろえた爪、左右均等な歯並び、皺のない白いTシャツ、深い色をしたインディゴジーンズ──その人から放たれる印象はとても清らかだった。

私は都会の小さな公園でブランコに座り漕ぐことを忘れたままその人の奥にある眼を盗み視た。そこは薄い水膜が夜を反射してどこまでも深く遠く清んでいた。そして、水膜は枯れることも茂ることもなく絶妙なバランスを保ち、ゆらぎ、泣きそうなくらい美しかった。

「あれ?ブランコ漕がんの?」

その人はブランコを漕ぐ仕草をしながらつぶやいた。その反動で指に挟んだ煙草の灰がポロッと落ちて赤い火種が剥き出しになった。

「あ、さっき煙草の灰、落ちたよ。」

私はその人が持つ煙草を指差しながら伝えると、その人は「ああ、」とつぶやいて煙草の先を確認してから大切そうに吸い、サコッシュからポチ袋状の携帯灰皿を出してそこへ煙草を入れた。煙草の吸い殻でいっぱいの公園できちんと後始末をするその人が妙にいとおしく思えた。すると、それが「ふふ、」と俄に音となり口から漏れたので、気付かれないように咳払いをしてブランコを漕いだ。

ぎいぎいと音が鳴るブランコを漕ぎながらゆれる夜空を見ると、黒ではない紺に近い青が明るくまだらにあった。ブランコで前後にゆれながら見る夜空は、近づいたり遠ざかったり忙しなく、ビルとビルの隙間から覗く大きなスマホの画面みたいに四角で無味無臭だった。

私はふと、むかしブランコを立ち漕ぎして、境界柵をポンと飛び越えて、地面へ着地していたことを思い出した。あの人が仕事で遅くなると、暮れる空の下でブランコを漕いだことを。苦い淋しさが私の小さな体いっぱいにあふれそうになるとブランコで境界柵の向こう側へ飛んだ。そこへ行けばなにかが変わる気がした。先生に危ないからやめなさい、と注意されたけれど、私はこっそり外へ出るとブランコから飛んでいた。

いまは、怖くて飛べないよ。

私はしっかりとチェーンを握り座ったままブランコにゆられて夜空を見上げ続けた。この無味無臭な青いまだらの向こう側は無重力、と内側でつぶやいた。そして、漕ぐ力を緩めてブランコを止めるとその人へ声を向けた。

「夜なのにさ、空が明るいし、星見えないし、なんかつまんないね。」

そう言うとその人は、「ふふ、」と笑った。

「そりゃあ、こんだけ高いビルが密集して人がぎょうさんおったら明るなるって。明るかったら星も見えんしさ。」

その人はそう言うと、胡座をかいたまま後ろ手をついて夜空を見上げた。

「おれの実家、めちゃ田舎で。夜になると田んぼか溝か砂浜か海か境目がわからんくらい真っ暗でなんも見えんけど、上見ると夜空に星、いっっっぱいおるよ。」

その人は懐古しながら微笑んだ。いま私の知らない夜空を思い浮かべている、と感じると、哀しいような悔しいような気分が混ざった。私はその人の名前すら知らないのに、その人を深く知りたいと思った。

「そうなんだ。いいな。私も見てみたい、その夜空。」

私がそう言うとその人は急に照れたようにはにかんで「ふふ、」と笑うから、私も「ふふ、」と笑った。私はつい2時間前は怖い目に遭い泣いていたのに、いまは素直に笑う自分が不思議だった。それはこの人と心地よく流れる南風とブランコが、ぎゅっと固まった私の心を解いてくれたのだろう。

私は2時間前にしつこくナンパされていた。それを通りかかったこの人が助けてくれたのだ。恐怖が涙になりしんしんとこぼれると、その人は「家の近くまで送りますよ。」とそっと寄り添ってくれた。付かず離れずの距離で歩く夜道は会話もなく、喧騒と夏のまったりとした空気が流れた。私は道中にある小さな公園から赤いブランコが見えると安堵した。そして、それがトリガーとなると風をうまく乗るビニールみたいにどこかへ飛んでいきたい気分になった。

「私、あの赤いブランコにときどき乗るんです。ぶらぶらゆられるとヤなことの濃ゆさがだんだん薄まるんです。どっか遠くへ飛んでいけそうだし、ぜんぜんちがう場所へトリップできるような、そんな気分になるんです。」

私が赤いブランコを指差してそうつぶやくと、その人は「ふふ、」と小さく笑った。

「じゃあいまからブランコ漕ぎましょ。」

その人は、赤いブランコを指差して「さあさあ、ね?」と言いながら公園へ入った。そして、ブランコの前にある境界柵の前の地面へ胡座をかいて手招いた。私はその人のことをなにも知らないのに信用できたのは、あのしつこくナンパしてきた男の体からあふれる性欲を感じず、その代わりに風に吹かれる野良のような解放された雰囲気を纏っていたからだ。私はその人のあとを追うように公園のブランコへ向かいチェーンに手をかけて座った。そして、煙草に火を点けるその人を視た。健康な土の上へ落ちた種みたいに胡座をかいて、不健康な煙突からあふれる煙みたいに紫煙を夜に蒔く姿は、野良だった。野生の青々とした閃光が放つ逞しい辛辣も、人肌の柔和な温もりが放つ愛日の甘露も、どちらも深く知り得たうえでどちらも自らが放棄して独歩する、野良──

「そういえばさ、まだお互いのなまえ知らなかったよね。私のなまえはとうか。東の風と書いて東風。なまえなんていうの?」

私がそう言うとその人は後ろ手を戻して掌についた土を払いながらつぶやいた。

「かなたです。ひらいかなた。平らな井戸の井に奏でるに大きいって漢字で平井奏大。」

奏大くんは土を払う手が止まり合掌になったままぺこぺことおじぎしてはにかんだ。私はなんだか仏壇の中にいる気分になった。

「ちょっと、私は仏様じゃないんだから。拝むのはやめて。」

私の精一杯の冗談も奏大くんには伝わらなかった様子でその表情から「?」が3つほど浮かんでいた。すると、奏大くんは「?」が貼りついたまま「グググううう。」と腹を鳴らせた。私はつい「ふふ、」と笑うと、奏大くんも腹を摩りながら照れたように笑った。

「お腹空いてるならこの公園出てすぐのところに居酒屋があるから、そこ行く?私が奢るよ。助けてくれたお礼。」

私がそう言うと奏大くんは「え?いいんすか?じゃあ行きましょ。」と急にチャラい敬語擬きになると胡座を崩して体育座りになった。背が高いのにコンパクトになった体躯から覗くその眼は、いまから冒険へ出発するときの黄色いワクワクが見てとれた。しかし、その奥にはあの深く遠く清んだものが不変的に流れていた。

一瞬で落ちた、

ヒュウと落ちるあの感覚。

私は0.1秒で切実に思い知った。そのあとに強烈な電流を食らったような熱いビリビリが体の芯を走った。

奏大君に対してのファーストインプレッションは野良だった。けれど、それはだんだんと心を開いて懐いた野良へと変化した。冷たさから温かさへゆるやかに充ち満ちる季節に順応するように私の身体は明るく反応した。

その現象を言葉にするのがもったいない。ただ、熱くまあるい塊が腹中で萌えた。そして、それは私の内側にある砂漠に雨を降らせた。雨というかわいい響きよりもスコールという名がしっくり馴染むくらいざあざあと降る。

「うん?とうかさん?どうしました?」

奏大くんのその言葉にハッとした私は、無理矢理我を取り戻して「じゃあ、行こっか。」と、冷たいフリをして言った。本当は熱いくせにメーターを反対に振り切り、急速冷凍した言葉はすこしうわずった。動揺している、そんな自分が恥ずかしい。すると、蚊がぷうんと耳元で鳴いて、私の夏はスタートした。

私たちは居酒屋へ着くとテーブルは満席だったのでカウンターへ並んで座った。私が「なににする?」と訊くと奏大君はメニュー表をさらっと目でなでて、あるところでピタッと止まった。

「アジフライあるやん!おれ、ビールとアジフライでおねがいします。」

そう言うと、ふたりの間に置いたメニュー表を私の方へ移動させた。「え?それだけでいいの?」そう言う私に奏大君は「うん、」と頷いて「とりあえずアジフライが食べたくて。好物で。」とお手拭きで手を拭いた。私たちはビールとアジフライと冷奴と枝豆を注文して、すぐさまやってきたビールで乾杯した。夏が私の喉を通り過ぎると息継ぎが「ぷはっ!」と口から漏れた。隣を見ると奏大くんも「くああ!」と口から漏れて互いの視線が繋がると「ふふ、」と微笑みが反射した。

それからふたりで食事しながら互いのことを話した。私は奏大君の話に何気なく相槌を打ちながら目には見えない透明なペンで脳みその上にデータを書き込んだ。

関西の海も山もある田舎から上京したこと

幼少期に両親を亡くし祖父母に育てられたこと

去年の冬に祖父を今年の春に祖母を亡くしたこと

天涯孤独になったこと──

「なんか、ごめん。おれ自身は幸せなんやけど、なんか言葉にするとさみしい人生みたいに聴こえるなあ。楽しいことも悲しいこともいっぱいあった。おとんもおかんもじいちゃんもばあちゃんもあったかい人たちやし、今思えば大事に育てられたんやなあって思う。感謝してる。」

奏大君はそう言い残してビールを呑んだ。持ったジョッキの表面についた水滴が水尾を作り、隣の水尾と結ばれ、大きな水滴になると底から落ちた。ポタポタと。奏大君は空になったジョッキをテーブルへ置いた。

「そりゃあ、いまもいつでも会いたいけど、うん、まあ、いつか会えるやろ。ふふ、」

奏大君は私を見るでもなく、カウンターの向こう側で忙しなく作業している店員さんを見るでもなく、棚の上に置いてある招き猫を見るでもなく、ただ、ぼんやりと落ちるさっきの水滴のように視線が上から下へ流れた。その横顔からはあのとき知った独歩する野良を感じた。自らが放棄して独歩する、野良──なぜ奏大君から野良を感じたのか腑に落ちた。私は小さく奏大くんを見た。そこにある眼の薄い水膜は、深く遠く清んでいた。そして、水膜は枯れることも茂ることもなく絶妙なバランスを保ちゆらぎ、泣きそうなくらい美しかった。

「うん、そうだね。いつか会えたらいいね。」

私は「会えるよ。」と断定することもできずに中途半端な乾いた言葉しか言えなかった。けれど、それは奏大君の前で「会えるよ。」と軽々しく判らないことを言いたくはなかったから。細く遠くにある希望的観測だけで発言するほど粗雑になれない自分を面倒に思うと、勢いで残りのビールを呑み干した。ぬるいビールは孤独な味がした。天涯孤独、という事実が私の内側で同期した。私も、天涯孤独なのだ。

「あいよ、アジフライお待ちど。」

店員さんが私たちの間にアジフライを置いた。

「うわあああ、来たキタきた!」

奏大君は黄色の声でそう言うと、箸でアジフライを取り勢いのまま口へ放り込んだ。「さくさく、はふはふ、熱うう。」と言葉も熱々にゆるんで、表情もゆるんで、顔が上を向いた。その姿は石鹸がお湯に溶けるみたいにいい匂いがした。匂いは器官で感じたものではなく魂で感じた。なんとも言えない、いい匂いだった。

「地元にドライブインなみまって言う飯屋があって。そこのアジフライがもうっ最高でさあ。家族でよく行ってて、中華そばもオムライスもサンドイッチもおいしいけど、おれはやっぱアジフライ定食の一択。うまいねんて。とうかさんにも食べてもらいたいよ。」

奏大君は関西弁と標準語を混ぜながら話した。そのことをかぶれると表現することもあるけれど、かぶれることは悪いことでも恥ずかしいことでもない。かぶれることは馴染むことだ。青と黄が馴染んで緑ができるような、新たな発見がある。かぶれることに臆することなくいつでも柔軟に心を鮮やかに染ることができる人は、強い。

私は「うんうん、そのアジフライ食べてみたい。」と、伝えた。私たちはそれからも何気ない会話をして何気なくラストオーダーのビールで乾杯した。そして、会計を済ませ、店を出ると奏大君は丁寧におじぎをしながら「ごちそうさまでした。今度はおれが奢るから。」と夏に似合う笑顔を見せた。

私たちは私のマンションの前までくだらない話をして歩いた。それは周りから見れば取るに足らない話に見えるかもしれない。けれど、私にとってこの瞬間はなによりも有意義で欠けた月が満たされるような光を感じた。もうすこし一緒にいたい、と思った。海中から息を吐いたときに泡がぶくっと浮上するように自然とそう思った。

「あそこ、あの白いマンションが私んち──」

私は、白いマンションを示しながら泡の浮力に任せてつぶやいた。

「あ、じゃあ、おれはここから見送るよ。」

奏大君はマンションを見ながらとっさにつぶやいた。私は奏大君の横顔を見ながら、あ、と思ったけれど、それは喉元で詰まって出て来なかった。すると、奏大君はサコッシュからスマホを出した。

「これ、おれの連絡先。」

粗削りな言い方が私の時間にぴたりとハマった。私の視線は奏大君と夜に光るスマホの画面を往復した。私は慌ててスマホを取り出して連絡先を交換した。

「おっし。また連絡するから。」

奏大君はそう言うと手を挙げて私を見送ってくれた。私は背中に視線を受けながら歩き、すこしして振り返ると奏大君は同じ場所にいてまた手を振った。マンションの前に着くと「じゃあ、おやすみ。」と手を振った。半分夜に溶けた奏大君から「うん、おやすみ。またね。」と聴こえて、それは小さな影になり街灯の下で背中が見えた。

「またね。」

奏大君の声で再生された。私はそれだけでうれしかった。

深い夜の底、誰もいない都会の片隅でひとりドキドキする私は、夏のど真ん中を生きていた。



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孤独はよく知っている。向かい風でオールバックになった前髪を直しもせず、前進することもできず、立ち竦み、脱力した瞼から見える景色は私を捨てた人の背中だけで、その赤い派手な服が他の景色を脱色してモノクロ変えた。児童養護施設の門の前で風に吹かれたまま足へ根が張ったように動けない私。名前も知らないやさしい大人は「さあ、行こうか。」と腫れ物が破裂しないように慎重に囁いた。私は根をぶちぶちとちぎるように足を動かせてその大人に従った。そして、施設の門へ入る前に一瞬の名残を追うように赤い背中を探した。けれど、そこには赤い背中はなく、モノクロのアスファルトと車と街路樹だけがあった。

それが孤独というものだ。

知っている。知っているはずなのに。

私は、またか、と胸の内側で残響するそれを無視して、普段通りに百貨店の化粧品売り場の華やかな匂いが入り混じるフロアで、きれいに化粧して、髪をまとめ、皺のない制服を着用して「いらっしゃいませ。」とおじぎをしながら笑顔で接客した。いろいろな名無しの感情が混ざる体の薄い膜が破れないように、平静に辛抱強く働いた。

暗い部屋へ戻ると必ずあの日の奏大君の声がする。だから、私はその気配を消すように明るい音楽をかける。ざらざらした音楽は記憶を削ってくれる。それでも、音楽と音楽の間にできる一瞬の深い溝は私から癒しを取り上げて、自然とあの日をリプレイする。

「じゃあ、元気で。」

そう言い残し部屋を出る奏大君の背中を見て、すぐに逸らした。パタンと閉じたドアから冷たい喪失が流れ、私の末端の感覚を冷静に奪い取る。泣かないというよりも泣けなかった。現実味のない物事の只中で唖然とするしかない。すると、施設の門の前で立ち竦んだときの感覚を鮮明に思い出した。虚しい、苦しい、痛い、が床を転げた。

奏大君は地元へ帰郷して農業がしたいことを真剣に伝えてくれた。祖父母や父母が営んでいた農業をはじめたい、と。そして「いっしょに行こう。」とまっすぐに言った。けれど、私は応えることができなかった。「うん。」と安易に言えなかった。軽々しく判らないことを言いたくはなかった。細く遠くにある希望的観測だけで発言するほど粗雑になれない自分を面倒だと思うけれど、それが私だった。

私はいままでひとりで生きてきた。転んでも誰も助けてくれず、ひとりで起き上がり、痛みで見た膝から赤い血が出ていても「これくらい大丈夫。」と自分に言い聞かせて歩いてきた。だから、寄り添うこと、添い遂げることが解らない。複雑に絡んだ糸は解けないのだ。

それでも奏大君のことを枠に収まらないほど好きなのに、その枠の境界線を越えられなかった。

「ごめん。」

ただそれだけを伝えると奏大君は私のきもちを掬い取ったのだろう、間を置いて「そっか。うん。そっか。わかった。」とカラッと笑った。部屋には冷蔵庫のサーキュレーターの機械音だけがそっと響いた。奏大君は立ち上がると「じゃあ、元気で。」と言い残して私たちは終わった──

音楽の溝は深いまま、いつしか無音になっていた。その無音を遮断するように冷蔵庫のサーキュレーターの機械音がぶううんと鳴りはじめた。私はたまらず、鍵を持ち家を出た。行く宛もないまま夜道を歩いた。すぐに小さな公園の赤いブランコが見えた。カブトムシが樹液の匂いに誘われるように、私の足も自然とブランコへ向い立ったまま漕いだ。ぎいぎいと音が鳴るブランコにゆれながら夜空を見た。それは、奏大君と初めて会った日と似たような色をしていて、やはり無味無臭だった。そこへ私の知らない夜空を思い浮かべている、泣きそうなくらい美しい奏大君が瞬いた。

「野良は、私じゃん。」

野生の青々とした閃光が放つ逞しい辛辣も、人肌の柔和な温もりが放つ愛日の甘露も、どちらも深く知り得たうえでどちらも自らが放棄して独歩する、野良。たぶん唐突に雨が降ろうが風が吹こうが雷が鳴ろうが動じることはない、私なら。

熱い彗星の速さで水が頬を流れた。とても繊細にそっと。鼻水を啜ると、それは次から次へと流れた。そして、ブランコの反動ではない風がビュンと吹いた。オールバックになった前髪で夜にゆれる私はいまならどこまでも飛んでいけそうな気がした。複雑に絡まる糸が解けていく。すると、すこし離れたところでバタバタと風をうまく乗りこなすビニールが飛んで高く舞い上がった。

イマだ!

自分が出した感覚的な合図で私はブランコから手を離し、高く飛んだ。視界の下で境界柵が見えてその向こう側へ着地した。けれど、着地した反動で転げた。「イッタああ!」そう言ってむっくりと起き上がると膝から小さく赤い血が滲んでいた。私は「これくらい大丈夫。」とつぶやいて土を払い「大丈夫。」と言い聞かせて家へ戻った。そして、服を着替えてカバンを持ちタクシーで高速バス乗り場へ向かい、関西方面のバスへ乗った。

大きな車窓から眩い街の光がだんだん薄れて暗闇になると化粧をしていない自分の顔が反射した。それはあの人を思いださせた。

「似てる、あの人に。でも、中身はぜんぜん違う。きっとそう。」

車窓に反射する自分にそうつぶやくと、絡まる糸は一本の線になっていた。そして、私は睡魔になでられて意識を闇に預けた。

瞼に透ける光で目が覚めた。「あああ。」と伸びやかで密やかな欠伸をして車窓を見るとハッとした。驚くほど青い海が広がっていた。視界いっぱいに純粋な青が充ち満ちている。奇跡だ。水平線のすこし上に太陽がいた。そこには小さな希望が見えた。

高速バスは親切にバスターミナルへ到着した。そこは海の匂いがした。何度か深呼吸してそれを肺へ入れると自然と薄まり、私の中に溶け込んだ。私はその勢いで奏大君へメールした。

ドライブインなみまで待ってます。

簡潔に想いを乗せて送信した。タクシーで5分ほどしたところに背の高い椰子の木が見えた。タクシーはその椰子の木の下で止まった。会計を済ませて店の前へ立ち、ドライブインなみまの看板を目でなでたあと、準備中と書かれた看板がガラス越しに見えた。私は、まだ開店前なのか、とひとりごちて横を見ると目の前に広がる海まで歩いた。海から吹く向かい風は心地よく爽やかだった。ちょうど椅子になりそうな岩に座り海を眺めた。こんなに端から端まで海を見たのは初めてかもしれない。自然とうれしくて「ふふ、」と声が漏れた。

「とうかさん!」

私は驚いて背後を振り向くと奏大君がいた。奏大君はなんとも言えない、困ったような、うれしいような、悲しいような、たのしいような表情でこちらに歩いて来た。私はそっと立ち上がると、膝にできた瘡蓋が縮む感触があった。それが私に小さな勇気を与えてくれた。

私は奏大君のすこし前で止まると、奏大君も止まり、やはりなんとも言えない表情で繊細にこちらを見ていることが分かった。

「私ね、野良みたい自由に独歩するのも好きだけど、やっぱり奏大君といっしょにいたい。夜空にいっぱいの星も見たいし、最高のアジフライも食べたいし、農業も手伝いたい。もしよかったらさ、奏大君のそばにいてもいい?」

私はありのままを伝えた。すると、奏大君は何度も頷きながら「うん。」とひと言だけ返事をしてくれた。そして「ふふ、」とはにかむように笑った。それ以上なにを言うでもなく、ただ笑っていた。でもそれは言葉よりも切実に私に届いた。

海から吹く風は私たちを通り越して陸に上がる。それは追い風となり私たちの背中をトンと押してくれるような気がした。

「開店しますよー!」

店のすぐ外から聞こえた。店員さんだろうか。

「あ、ゆみこさんや!おーい!」

奏大君はそう言うとその人に手を振った。

「じゃあ、アジフライ定食、食べにいこっか。」

奏大君は私にそう伝えて店へ向かった。私は奏大君の背中をそっと見て駆け寄り、いっしょに歩いた。













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