〈映画研究ユーザーズガイド〉 第8回 サイエンス・フィクション
SF映画研究の現在
こんにちのジャンル映画研究の先端部分をもうひとつとりあげよう。SF映画だ。
SF映画は、ハリウッドはいうにおよばず、次から次へと傑作がスクリーンにかかってもいてまさに一番人気を誇るジャンルでもあるといってもいいかもしれないほどで、それに応じて、SF映画研究の方も追いつけ追い越せといわんばかりに活況を呈しているのである。
今回は今世紀のSF映画研究の有り様を照らし出してくれていると思われる研究書のひとつないしふたつをとりあげたい。
まず、J.P.Telotteによる『SF映画(Science Fiction Film)』(Cambridge University Press, 2001)である
SF映画は、論じることがことのほか難しいジャンルである、そう漏らすことから著作はおこされている。
まさに「サイエンス・フィクション」というフレーズにその難しさがあらわれている。一方では、「サイエンス」という言葉を掲げ同時代の科学や科学技術の適切な描像とその帰結を物語るという側面と、他方ではまさに「虚構(フィクション)」を物語ることで観る者を惹きつけようとする側面があり、まさに正反対にすすむ力線が合わさったような、無理筋のジャンルであることを醸し出している。
それよりなにより、論じようとする身振りの実情をみても困難さはあきらかだ。映画というものが同時代の観客の関心を惹くことがミッションであるかぎり、同時代の文化や社会の影響を受けないわけにはいかない。いいかえれば、制作側は、観客や批評家に対して、期待を裏切らないながらもいい意味で期待を裏切るという芸当が担わされるのが通常だ。いわば、取り扱おうとする手からすぐさま漏れ出ていくジャンルであって、これはなんとも難儀なものだ。
そんなこんなが、これまでのSF映画論やS F文学研究を駆け抜けながら、イントロダクションで確認されている。
ではあるものの、SF映画について、20世紀中葉以来の映画研究があれやこれやの方策で接近しようとしたことは確かで、どこがどう改善されてきたかのをトレースしながら、著者は第1章で自身の方向性を組み立てていく論述になっている。
たとえば、だ。このジャンルに出てくるさまざまなアイテム−−ロボットやロケット、宇宙、未来都市などなど−−をリストアップして、SF映画を定義づけようとしてきた方策もある。とはいえ、そうしたアイテムが出てきていない事例がすぐさま出てきて、こうした方策の有効性は疑問に付されることになる。
そこで出てきたのがいわゆる構造主義のアプローチであるが、代表的なのは、リック・アルトマンの 論文”A Semantic/Syntactic Approach to Film Genre “( Cinema Journal, Vol. 23, No. 3 (Spring, 1984), pp. 6-18 (13 pages)だろう。 先のようなアイテムも含め、このジャンルに登場するさまざまな映像記号が織りなす構造あるいはパターンといったものを浮き彫りにし、それをもって、SF映画のジャンルとしての特質を規定しようという方策だ。
だが、これもまた、あれやこれやの当てはまらない事例が出てきてあるいは新しく制作されスクリーンにかけられたりで、あまり有効でないことが判明している。
SF映画は、固定的な枠組みを前提とする仕方ではなかなか接近できないジャンルなのである。
だが、そういったことだけなら、他のすべてのジャンル映画についてもあてはまることだろう。SF映画研究というにはあまり意味のない按配になってしまう。
著者テロットは、上記のような点を踏まえた上で、SF映画についての特質についてどのように有効に捉えることができるのかについて、仕切り直しをはかろうとする。
この、SF映画というものが、自らの輪郭をつねに変化させていく、そういうジャンルなのだという点を受けとめ、逆に、その動態性にこそ着目したアプローチを著者は練り上げようとしていくのである。
これにあたって、テロットはちょっと気の利いた議論を展開している。構造主義的な理論立てを斜めから、あるいは内側から、組み換えていくのである。
端的には、20世紀中葉一世を風靡した文学研究者ノースロップ・フライのジャンル研究を、それを批判する同じころこれまた一世を風靡した文学研究者ツヴェタン・トドロフの批判(『幻想文学論序説』)を大胆に活用しながら、SF映画にアプローチする切り口を探っていくのである。
こんな具合だ。
フライが話題となった『批評の解剖』で示したような、文学上の諸ジャンルに関する統一理論は有り体にいって、理論的カテゴリーを打ち出そうとするあまり論の運びが強引になり過ぎていて、歴史的実態からは遠く離れてしまっているとトドロフはいう。なんとなれば、多種多様な作品を無理矢理に想定されるカテゴリーに押し込めようとしているからである。
同じことは、多くの事例を網羅するような「スーパーテクスト」を打ち立てようとしても変わらない。ひたすらに、サンプル数が拡大していくだけだからである。
これらを踏まえ、トドロフが提示するのは、「中継ポイント(poind of rela)」としてのファンタシー・ジャンルという発想だ。ファンタジー小説は、他のジャンルとの関係のなかではじめて、あるいは距離の取り方は、物語文化全体のなかでの位置どりのなかでつねに揺れ動きながら、その形態をかたちづくるものだと述べているのだ。
そこにテロットは注目するのだ。構造主義的であるはずのトドロフの論ではあるが、じつは、彼のジャンル論は、その内側に、より動態的な視点の大切さを抱え込んだものとなっているというわけだ。実在するものの境界の曖昧さ、揺れ動きに着目していた、そこを自分も活用したい。そうテロットは論を調えるのである。
とはいえ、20世紀後半に日本の知的ジャーナリズムでみられたような、構造とその外部の弁証法という図式で、動態性を著者は位置付けようとするわけではない。また、力線がリゾーム上に拡散していくといった、力学的であるもののいささかフラットな動態性を念頭においているわけでもなさそうだ。むしろ、その中間あたりの、動態的な力が蠢きながらも、あれやこれやの形態をかたちづくったり作り変えたり仕切り直したりするという、そういう描像なのかもしれない。
いずれにせよ、著者テロットが注意を寄せるのは、トドロフが、ファンタジー的ないし空想的なものに隣接する関係にあるふたつの形式である。すなわち、「空想的なもの(the fantastic)」は、「驚異(を感じさせるもの)(the marvelous)」と「不気味さ(the uncanny)」である。
トドロフ自身はSFについて直接は論じていないが、これらの三つの形式を駆動させることで、SFジャンルを生成させている物語的想像力の特徴を観測できるのではないかとテロットは自らの方向を練り上げていく。
もっといえば、これら三つの形式、より正確にいえば、想像力のエンジンこそが、SF映画を突き動かしてきたものではないかというのである。
「驚異」は、簡単にいえば、未知のものとの接触にかかわるもので、いちばんわかりやすくは、宇宙人との出会いがドラマの軸になっている。『地球が静止する日』(1951年)から『未知との遭遇』(1977年)さらには『インディペンデンス・デイ』(1996年)などだろう。異星人との遭遇は、わたしたちの世界に対する理解図式を揺さぶるのであり、知識の限界を知らしめることとなる、そんな物語を織り上げる。
他方、「空想的なもの」は、いうなれば、現行の科学や技術がこのまま進展していくなかで、世界を様変わりさせていくさまを想像力を発揮して描きだすエンジンだ。わかりやすくいえば、ユートピアであれディストピアであれ未来社会の相貌を描き出すというSFの世界観にかかわるものろう。『メトロポリス』(1926年)、『THX1138』(1971年)そして『未来世紀ブラジル』(1985年)『ダーク・シティ』(1998年)などを上げることができるだろう。
「不気味さ」は、人間の精神の水準に作動する想像力のエンジンだ。科学や技術が、人間自身を変えてしまいかねないという主題を組み込んだ物語をめぐるものだからだ。それにまつわる違和感や怖れがスクリーンに賭けられることになっているからだ。『ブレード・ランナー』しかり、『ロボコップ』シリーズ(1987年、1990年、1993年)しかり、また『ターミネーター』二作(1984年、1991年)しかり、だ。
急いで付け加えておけば、いささか時代遅れの感さえあるスーザン・ソンタグのSF論を持ち出してきて論じているのは、これらの映画は概括的にいって、「理性」と「科学」と「技術」をめぐるテーマをもつことが多いと著者はいう。こういってよければ人類普遍の主題系がSF映画作品においてはこうした物語的想像力の駆動のなかで深掘りされていると付け加えてもいる。
ここで二つの点が、確認されてしかるべきだ。第一に、これらの三つ組はいわばSF映画を突き動かしているエンジンのようなものであって、なんら固定的な対象物とはなっているわけではないということだ。
第二に、第一の点から帰結することでもあるが、そうであるので、時代ごとにジャンルの盛衰が生じるとかといった具合に、直線的な変遷の歴史観が採り入れられているわけではないということだ。そうではなく、盛り上がったり廃れたりまた活気を取り戻したりとかといった具合にSF映画史を流れていくものと理解しておいた方がいいだろう。ジャンルなるものは同時代の文化や社会の状況によくも悪くも左右されるのであるが、時代や社会の変化自体、共時的構造が輪切りのように並んで通時的に推移する、などとわかりやすくすすんでいく格好のものでないことは20世紀的な現代思想の限界にまつわる教訓でもある。
ただ、こうした具合に、つまり動態的に、SF映画の質的特徴を、いわば物語内容の水準で浮かびあがらせるということで著者の論が終わっているわけではない。さらに訴求力のある、映画的な表現にかかわるアプローチも講じられているからである。
すなわち、SF映画は、その物語の内容上の質的特徴が、その表現技法上の効果の案出と切り離しがたく結びついているという点を強調するのである。
テロットがここで参照するのは、近年、新しいタイプの物語論を展開するガレット・スチュアートの論文「ヴィデオ学(Videology)」である。(筆者は、さる学会でスチュアートの仕事についての発表をみたのだが、なんだかあまり関係のない、しいていえば20世紀的な枠組みに押し込めようとする話が多くあらら、大丈夫かなと思ったことがある。)
スチュアートは、「未来に関する映画は、映画の未来と分かち難く連動している」といってはばからない。というのも、SF映画なるものは、その作品体験の新奇さの創出に全力を注いできた経緯を無視できないということだ。
テロットは、これに自身の考えを接木してこう述べる。SF映画は、他の映画と比べようがないほどに、特殊効果––あるいはもはや映画制作上にわたって用いられているのであるから視覚効果その全般といってもいいわけだが−−を全力で駆動してきた。観客の映画館での体験を刷新するために、制作スタッフはあれこれやの手段を尽くしてきたのだ。
先の三つのエンジン「空想上のもの」「驚異」そして「不気味なもの」を画面に物質化するために、SF映画は、使えるものはなんでも使ってきたのである。
筆者もそれは思う。特殊効果と視覚効果の変遷の授業をおこなった時に、それは痛烈に感じた。
マット加工やストップモーションさらには機械仕立て小道具大道具を駆使した人形メカニカルを駆使した『キングコング』(1933年)をみよ。フロントプロジェクションをはじめ映画作りの技術と技法を一新した『2001年 宇宙の旅』(1968年)をみよ。をオプティカル・プリンターを自在に用いた『スター・ウォーズ』(1977年)をみよ。CGをいち早く採り入れた『ジュラシック・パーク』(1990年)、大胆なモーフィング技術で観客を魅了した『ターミネーター』(1991年)をみよ。
映像技術を創作表現に活かす技法を大量に開拓してきたSF映画の歴史に、心底驚嘆したものだ。それらが、同時代のあるいは後に続く、SFでない映画作品にも多くの影響を与えたといえるのではないかとさえ感じたからだ。
理解の図式はさらにアップデートしていく必要がある。
テロットがいうには、SF映画は、映画自身が科学技術から産出されたという経緯に敏感で、自分自身の科学技術的な組成を常に省みながら刷新していこうと邁進してきた、そういうジャンルなのだということだ。
いわば、自己言及的に、メタ・レベルからの表現の革新に挑戦してきたジャンルであるということだ。平べったい技術経験論ではおそらくとらえきれない、技術決定論を乗り越えようとする創意工夫こそがSF映画の眼目なのだと述べるのである。そういった意味合いでも、動態的、自らを生成変化させていく得意なジャンルであるということになる。
このような視点から、では、SF映画の歴史はどのように描き出されるのだろうか。
これまでのポイントを踏まえれば、たやすく予測できることかもしれないが、SF映画を駆動させるエンジンの主要なものはSF映画に限られるものではない。つまり、SF文学、あるいはSF漫画、SFアニメーション、SFテレビドラマの作品群も駆動させてきたものだからだ。
詳細は原著にあたっていただくしかないが、こうした構えのもと、著者テロットは、さまざまな媒体をまたがって、個々の媒体の質的特徴を活用しながら、拡がるSFの地平を、SF映画をひとつの軸において描き出すという格好で素描している。最後にもうひとつ付け加えておこう。著作の結語で、スコット・ブカトマンの言葉を引いて、社会がそのものがSF映画のようになりつつある今日、SF映画について考えることは、一層厄介なものになっているかもしれないとテロットは論を締め括っている。
SF映画の考察は、情報技術が世界の行方を大きく左右すだろうと誰しもが思い描く現在、単なる映画論を超えた切り口が必要なのかもしれない。
じつのところ、テロットは、このように整理しつつ提示したSF映画の理解とともに、じつはこれを下敷きにした、かなり大胆な著作をその後、発表もしている。映画が描き出してきたロボットのイメージについての研究『Robot ecology and the Science Fiction Film』(Routledge, 2016)である。
先の著で提示された、SF映画の動態的な変遷はという見方は、ここで近年の人文学や社会学が参照することの多い著作を用いて、ブラッシュアップされている。
すなわち、チャード・ドーキンスの「文化的遺伝子」すなわち「ミーム」論、ヘンリー・ジェンキンズの「メディア・コンバージェンス」論や、リや、ニール・ポストマンからマチュー・フラーなどが提唱する「メディア・エコロジー」論を用いて、自らがSF映画に対して用いていた動態的な変遷を、捉え直しているのである。
そうした捉え返しにおいて、文化生態系という理解の仕方を作動させ、そのなかで、「ロボット」なるミームがどのように変容ないし進化し、独自の興味深い変容を遂げている、そういう経緯を炙り出そうとするのである。
その炙り出しは、じっさい、なかなか刺激的である。というか、ちょっと驚くべき考察である。
ざっくりまとめておけば、ロボットの生態系は、三つのタイプの形象が絡み合って推移してきたという。
ひとつは、ロサンジェルスにある、アメリカ西部に関する多様な文化的表現を扱うオートリー博物館にある「ロボット頭部の仮面」に端を発するものだ。比較的わかりやすいのは、『オズの魔法使い』(1939年)に登場するブリキ男の出立ちである。
ただ、その前に『ダンシング・レディ』(1933年)にロボットマニアの変装で、『ファントム・エンパイア』(1935年)ではまさしくロボットとして、同種の形象がすでにスクリーンにかかっているものだ。生態系を広げれば、1939年のニューヨーク万国博覧会のウェスティングハウス館のロボットも同じタイプのものが展示されていただろう。
このタイプは、第一次大戦と第二大戦の戦間期に大いに流行ったものであるといえるが、この時期はいわゆる「機械の時代(the Machine Age)」と呼ばれるように、技術の発展が社会の未来にどうかかわっていくのかについて関心を集めた時期だともいわれている。そうした時代状況のなかで、ブリキで造られた顔や体が、そうであるからこそシンボリックに、人間の交流がぎこちなくも探求されるさまを描き出しえたということかもしれないということだ。
ふたつめのタイプは、なにやら目に似た点滅する球体やら、口に似た穴や、耳のように頭部の両側についたぐるぐる回たりさえするセンサーのような突起やらが頭部前面に組み込まれたタイプの形象だ。『禁断の惑星』(1956年)のロボットが代表的なものである。この作品がまさしくそうであったように、この形象は、人類とのコミュニケーションあるいは意思疎通の可能性が透かし彫りに描き出されるようなところがあって、いわば、機械から出てきているのに心があるのではないかと感じさせるようなタイプだ。
いいかえれば、オートリー博物館が典型化しているブリキ型ロボットは多少なりとも人間に寄り添った従順さが描きこまれていたのに対し、戦後に流行った視聴覚デバイスが嵌め込まれたような外観をもつこの新しいタイプは、独自の心の動かし方があるのではないかという不安を人間に感じさせるようなプロットが多かったという。
いうまでもなく、時代背景としても、核爆弾技術や大規模計算機などの開発などが一般ジャーナリズムでも話題となってきてもいて、ひとびとが科学技術に自らの未来を託せるかどうかを案じはじめた時期と重なってもいる。
1960年代にはいると、『トワイライトゾーン』を始めテレビのSFドラマ番組にもよく登場したようだ。『ロスト・イン・スペース』シリーズ(1965-66)のロボットB-9などを覚えている人もいるかもしれない。生態系でいえば、当時は、機械仕立ての玩具のロボットにもこの種のものが多かったようである。
みっつめのタイプは、人間と変わらない外観を持つタイプだ。
フリッツ・ラングの『メトロポリス』(1927)に登場するマリアから、リドリー・スコットの『ブレード・ランナー』(1982年)まで、多くの作品で用いられたものだ。ロボットのようではないロボットということで、アンドロイドやサイボーグあるいはレプリカントという名も与えられてきたタイプである−−専門家の一部は、これらの間の差異について細かな検証をおこなってはきてはいるのだが、それはここではおいておこう。
人間に似ているという親近感からの魅力、と同時に人間の外観を持っているにもかかわらず技術機構にすぎないという怖れという、相矛盾する設定がこのタイプにまとわりつく物語上の属性だろう。『ターミネーター』シリーズはその典型である。
興味深いのは、そうであるからこそなのかもしれないが、上半身部分、とりわけ彫刻史ではトルソと呼ばれる部分だけになってしまう物語展開となっている作品は少なくない。『攻殻機動隊』(1995)をみよ。『エイリアン』(1998年)をみよ。人間的外観と非人間的仕組みが同時に露呈してしまうという画面が、不気味さを醸し出すことになっているといっておけばよいだろうか。
さらにさらに、だ。
こうした、人間的な外観をもった、でも人間とは異なるという実財物の設定は、極端にいえば、すべてが人間が案出した相貌が埋め尽くした世界のひとつの際立った事例ということもできるだろう。
巷を賑わした言葉を使えば、「ポストモダン」な世界の事例としてだ。それを「シミュラークル」をめぐる問題系として捉えたジャン・ボードリヤールの名もが言及されている。だがそれよりも、「媒体によって媒介された(mediatized)」とした社会として把捉しようとしたポール・ヴィリリオの 論に著者自身はよって議論を展開している。
『アバター』(2009年)がスクリーンに映し出した、人間が進化したような想像物が、人間よりもより人間的な思考と感情をもつにいたるという物語展開も、こうした問題系から考えるべきだろうと述べている。
これらの議論につづいてこの著作の最後の章で、テロットはさらにグッと踏み込んだ議論を展開している。
先の著作でいえば、社会がSFになってきた際の、SF映画とはいかなるものかというブカトマンの提言に彼なりの応答をしているかのような議論である。
というのも、映画は、その装置において、一種のロボットであったのではないかという論点を提示するのだ。音や声そして映像を動かし、対する人間(観客)になにほどかの語りをおこなう、すなわち一種の知的コミュニケーションをおこなうのであれば、それはロボットではないかと。(筆者も、じっさい『2001年 宇宙の旅』の人工知能ロボットは、スクリーンと声ではなかったかと読んでいて膝を打った。)
とすると、映画というロボットは、別のタイプのロボットを形象化してきた、そういうものとして映画史を辿り直すこともできるはずだろう。二重化された仕方で、人間の知能の働きについて考察してきた歴史だ、そうもいえるかもしれない。
関心のある向きはぜひ原著にあたってほしいが、筆者の興味を引いた点ひとつだけとりあげておこう。
上記のような状況を「ポストヒューマン」という用語でざっくり名指そうとしたロージ・ブライオドッティの論にも言及してはいるのだが、テロットはむしろ、生きられる世界(自然と科学技術)と生きる人間の関係の進化についてより広い視野から探究をすすめるダナ・ハラウェイの論により強調点をおいているようだ(サイボーグ・フェミニズムのハラウェイではなく、進化分子生物学と接続したハラウェイである)。
テロットの問題提起はなかなか強烈である。
というわけで、SF映画はもちろんだが、SF映画研究からもなかなか目が離せそうにない。