『情報哲学入門』のための練習問題 no.1
今年(2023年)の初夏(といっても、シンガポールはいつも夏みたいなのではあるが)、少しでも現地のいろんな人と触れあう機会を増やそうと考え、ChatGPTに相談してみた。「meetup」の一つに参加してみるのはどうかと応えてきたので、オンラインで調べてとりあえず日本語グループに参加することにした。
さっそく地図アプリでガイドしてもらって、土曜日に開催されているというショッピングモールのフードコートに出かけた。日本語ばかりでなく、中国語、フランス語といろんなグループがあって、それぞれ10人くらいの規模で座席を陣取ってにぎやかに談笑していた。挨拶をして自己紹介をして仲間入りした。日本はあーだとかシンガポールはこーだとかという語らいに入って楽しく過ごした。
日本語のオーガナイザーは、ナンヤン科技大学で工学を学んだあとHSBCに勤めているシンガポール人だ。AI導入以後のバンクシステムにもヒューマンタッチの部分が絶対残るので、そこが勝負となるといっていた。最近も、フィンテックではないが、ボリンジャー線やMACDといったオシレーターも活用したテクニカル分析がYouTubeなどでも流行っているが、AIによる自動化はどんどんすすんでいるのだろう。
でもこれでは英語のトレーニングにはならないなあと振り返っていたところ、数日経ってオーガナイザーからウォーキング企画もあるので参加しないかと誘われた。定期的に開いているようで、みんなで好きな言葉でワイワイ話しながら、マリーナベイサンズ周辺をそぞろ歩いてミシュランで星もとったお店もあるホーカーズ(屋台街)でお昼ご飯を食べるという。
これも参加してみたが、さすがシンガポールで、話す人話す人、みんなビジネスや投資の話が多く、経験値どころかボキャブラリーさえおぼつかないのでちょいと苦労した。
と、スペインから来てIT関係の仕事をしているという女性と歓談していると、前日の夜、仕事終わりに映画館でトム・クルーズ主演の『ミッション・インポッシブル』最新作を観たという。人工知能がもたらす未来とはどういうものなのかという、自身が職業柄関心を持たざるをえないテーマが正面から取り上げられていたかららしい。
不甲斐なくもまだ観ていなかったのだが、それだけではない。筆者が、新著『情報哲学入門』(講談社選書メチエ、2024年1月15日刊行)の校正のまっただ中だったのだ。おっとこれはやばい。
急いで映画館へ出かけ、『ミッション・インポッシブル:デッドレコクニングPART1』を観てみた。日本語字幕がないので、どこまで英語の会話にキャッチアップできたのか覚束なさ加減も抱えながらも、これは面白いぞ、深いぞとゾクゾク感がとまらない。
トム・クルーズが主演する映画は、情報技術についてそのとんがった未来像を描き出すことがしばしばある。『バニラ・スカイ』などはその典型で、たとえば、その当時予想しうる情報処理システムの非接触型インターフェイスが描き込まれていて。へえーこんなふうになっていくのかなあとワクワクしたものだ。
そういえば、前世紀末に、フランスの哲学者P・ヴィリリオが、かつては、科学者がSF映画に触発され開発していくという以前の構図だったのが、当世は反対ではないかといっていたように記憶している。デジタル技術や跋扈する21世紀のいま、未来に向かう技術と映画の関係は、はてさてどんな具合なのだろうか。
ともあれ、『デッドレコクニングPART1』に戻ると、冒頭から、何やら、AIが暴走しているさまがたっぷり映し出される。つづいての政府高官レベルが集う狭い部屋のシーンでは(まだPART1なのでなんともいえないが)、議論をリードしている長官らしき人を補佐している男女二人が、なんとも石黒浩が作ったひと型ロボットのようにみえなくもない—この解釈はあたっているどうか。情勢分析のアシスタントなどというものは今後、こんなふうになっていくのだろうか。
人工知能の暴走というと、レイ・カーツワイルのシンギュラリティ論を思い浮かべるひともいるかもしれないが、彼の著作を読むかぎり、必ずしもそういうことは論じられていない。むしろ、人工知能が人間を越え出てていくのを言祝ぐトーンが強い。
加えて、シンギュラリティ論者として大雑把に括られることもあるものの、ニック・ボストロムやマックス・テグマークの論は、微妙にけれども決定的にスタンスも論立てもちがっている。
ボストロムやテグマークはそれぞれ、巨大ビッグテック企業からの支援も受けつつ、情報社会の未来を考える研究所を設立していて、アカデミズムを越えてこの辺りの知を牽引している大物知識人である。『ミッション・インポッシブル』の制作スタッフが、この辺りの文献をチェックしていてもおかしくはない。この最新作が誰のどの論により近いかを考えるのは、ちょっとした情報哲学の練習問題となる。
少し補助線を引いておくと、カーツワール、ボスとロム、テグマーク、ともに人工知能が独走する可能性を論じている。論立てが分かれてくるのは、その形態だということだ。
この辺りの次第は、ぜひ『情報哲学入門』の第一部を読んでいただきたい。
ここでは、冒頭で述べたシンガポールでのエピソードを振り返り、問いを噛み砕いておこう。人工知能はあたかも『2001年 宇宙の旅』(S・キューブリック、1968年)のように、どこかの中心から世界を管理していくのだろうか。あるいは、ChatGPTのような大規模自然言語処理システムが独走していくのだろうか。あるいは、フィンテックが生成AIと結びついて経済から社会全体へとその圏域を広げていくのか。いやいや、地図アプリが溜め込んだデータから人間行動の誘導を決定していくというような挙動に出るのか。
どのように解答するのが適切なのか。
いずれにせよ、自分自身がどのように情報技術にかかわっていくのかという実存的な振る舞いに直結してくることに留意しておこう。
ちなみに、カーツワイル、ボスとロム、テグマーグが一致して共有しているのは、情報技術がもたらす世界にどう関わっていくのかという問いをいまこそ真正面から向き会わねばならないという確信である。