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〈シンガポール雑記帳〉その3


 マイク・デ・リオンが世界のあちこちで話題になっている。
 オーダム・シアタで目の当たりにしたのはそんな光景だ。

 監督自身が登壇し、その対談相手をニューヨーク近代美術館映画部門キューレーターのジョシュ・シーゲルが務めるという形式だったのだが、シーゲルは昨年末に近代美術館でのデ・リオン監督の特集上映を企画し好評を博していて、それが今回のこのイベントのきっかけになっているのだ。

 配布された資料をみると、そもそも2022年前半にはカンヌ映画祭でデ・リオンのレガシーともなっている『Itim』(1976)がデジタル補修され、特別上映会が催されたようでもあり、それもまた各国での再注目の後押しとなったようである。
 いやいや、『Kisampmata』(1981)は、公開翌年の第35回カンヌ映画祭監督週間で上映され、さらには、ヴェンダースに招待されて、ゴダール、スピルバーグ、アントニオーニという面々と並んで、「映画の未来について」に語るパネルに参席もしている。すでに名前を確立したこれら大監督がとうとうと弁を振るうなか、デ・リオン監督は「フィリピン映画の未来を尋ねるなど、なんと愚かな質問か。まるでフィリピンの未来について尋ねると同じではないか」と答え、わずか30秒ほどで終わったという。語り継がれているエピソードだ。独裁政権下で政情不安定なフィリピンの現実をまったく無視した、シネフィルたちののどかな質問に映った、ということだろう。そもそもが、世界に名を馳せる大監督なのだ。
 それがまた、再注目を浴びているのである。
  (事情に疎い筆者の努力不足なのかもしれないが、カンヌ映画祭好きが多い日本で、なにゆえかくも話題になっていないのかはちょっと不思議だ。)

 この監督は、とびきりの上流出身、しかもフィリピンでトップクラスの映画会社経営者の直系の孫息子でもある。そうでありながら、映画史を内側から食い破るように話題作を次々に発表してきたという経歴で、フィリピン映画の大御所であるとともに、たいへんな無頼派なのである。

 対話自体は、興味深いことにいうか、筆者としては予測もしうる感じではあったが、映画技法へのこだわりに関するものからはじまった。
 カラー、オプティカルプリンターの積極的な活用、カラーデザイン、音響演出、二重露光といった技法についてだ。予想していたというのは、これらの技法は、〈映画研究ユーザーズガイド〉でも記したとおり現在映画研究の活況のトピックなので、こういう対談でもそれらの技法が話題となってもおかしくはないなと予感していたからだ。
 『Itim』を見れば、すぐさま、その屋外の明るさと色目と室内の暗さと色目の周到な対比に観客は気づくだろうし、カセットテープ録音機やら写真機やら雑誌やらの物語世界への組み込み方にも気づくだろう。録音機ではコッポラの『カンバセイション』(1974)がほぼ同時期なのでびっくりするし、写真撮影が物語展開に一役買っているという点で、アントニオーニの『欲望』やヒッチコックの『裏窓』などの数々の名作を彷彿とさせる。とはいえ、ネタバレになるので控えるが、単なる引用というよりは独自の深化と呼ぶべきものだ。

 対談では、撮影技師として経歴を積んだデ・リオンは飄々と、いやあ、やってみると面白いかなあと思ってといった具合で、はぐらかしているのか恥ずかしげなのか、ユーモラスでチャーミングな口調で応接する。
 けれども、オフスクリーンから響いてくる自然の草や風が立てる種々の音、あるいは祈祷の声などは独特のサスペンス効果やホラー効果を生じさせていますねという質問に、必ずしも否定の弁を口にしなかった。

 デ・リオンが、映画会社トップの半ば御曹司として小さい頃から撮影所に出入りしていたこともあわせてみると、そりゃそうだわなとも首肯した。
 ちょっといっておけば、20世紀の(とりわけ日本の言説ではジャーナリズムでもアカデミズムでもしばしば前提となっていた)撮影→現像→加工といった工程分割は薄っぺらな理解でしかない。演出上はじめから撮影技法と加工処理との絡み合いが予想され折り込まれ実践されるのが(現場では当たり前といえば当たり前な)流れだった。撮影段階で編集をあて込んでいるというのは気が利いた監督なら当たり前の話なのだから。いや、映画制作を教える学部にいると、学生がふつうに口にする言葉である。映画批評家や映画研究者が、概して現場とあまり触れ合わない類いの人たちの場合、「撮影のときには編集は終わっている」とかなんだか聞いた風な話を鬼の首をとったかのように書き付けることがあるが、なんだかなである。
 いずれにせよ、デ・リオンの語るエピソードは刺激に満ちていた。

 幼い頃、映画会社を立ち上げ経営を仕切った自らの祖母にまつわるものはその典型だ。スペイン系のカトリックを信仰していたので日曜日の朝は祖母は家族をミサに連れて行き、ついで昼からは撮影所に赴き毎週のように新作のラッシュ試写を見せたという。ベンヤミンやヘーゲル寄りの映画研究者なら心躍らせそうなエピソードかもしれない。
 生い立ちを語るときは、宗教イメージに囲まれて大きくなったところがあるのは事実だという。だが、ホラーサスペンスが多い彼の作品群を指して、死者とのコミュニオンが見てとれるがスピリチュアリティは信じているかという質問には、そんなものはもう何も信じていない、信じているわけないじゃないかと軽々と言い切ってしまう。そんな具合なのだ。
 『Kisampmata』を見れば、この監督のサイコスリラーは、すぐさま触知される空間処理の妙もあって、その物語の奥行きを深さはただごとではないと驚こかされるだろう。筆者は、大島渚の『儀式』に、黒沢清のホラーサスペンス感が混ざったようなそんなふう、と思ったくらいだ。

 とまれ、デ・リオンがそこからふと口に出したのは、スペインやアメリカによる植民地化の歴史の悲惨であり、日本などの政治的介入の厳しい歴史だ。ついでデ・リオンが言い放ったのは、植民地をめぐる映画作品の多くは貧困や抑圧について語るのが普通だが、自分は支配階級を取り上げてみたかった、という言葉だ。自身の出自と階級のこともあるのだろうが、支配階級がいかに植民政策に寄り添ってしまうのかということに興味をもったというのだ。
 さらには、配布資料をみると、デ・リオンの長兄はいわゆるアートシネマをエリート層に向けて作る映画人で、次兄はハリウッド型のエンターテインメントを大衆向けに作る人だったそうだ。彼は、どちらでもない道を選んだわけだ。

 補助線を引いておこう。
 世紀が明けたころ、Allan Williams の『Film and Nationalism』(Routledge, 2002)では当時の状況として、ハリウッドが放つグローバルな大作映画、フェスティバルで話題となるアートシネマ、加えて国々で鑑賞されるローカルな映画の三つの回路に、映画業界が棲み分けられていると指摘していた。
 それが、近年の、たとえば、南アジア映画史になってしまうが、ナショナル・ライブラリーで見つけたSara DickeyとRajinder Dudrahによる『South Asian Cinemas』(Routledge, 2012)をみると、南アジアの映画は、しばらくその代表例として語られていたボリウッド映画を典型として、常に西洋において「アートシネマ」あるいは「ハリウッド映画」を参照して論じられてきた、その段階を研究者はようやく越えつつあると文章が起こされていたのだ。
 アジア映画について、研究の側でも急速にアップデートがすすみつつあるのだ。
 こういえば若い人には叱れるだろうか。「アート・シネマ」を観てるワタシやボクはちょっとオシャレといった体のありがちな映画消費は、早い話、映画業界の今日の棲み分け具合に対しては無自覚な身振りかもしれないのだ。趣味趣向の話なので別段良いのだが、それが「マーヴェル映画などを指してただのヒーロー物でしょ」と断じる段になれば、意識高い系がじつはあまり意識高くないことになっていやしないかと訝しくなる。
 さらにいえばである。
 2011年の時点でシンガポール国立大学から刊行されている『Asian Aesthecis』(edited by Kenichi Sasaki, National University of Singapore Press,2011)に収められている、David Chou-Shulinによる論文"Introduction to the Aesthetics of Southeast Asia"では、フィリピンでは1950年代から1960年代にかけて西洋のモダニズムに影響を受けたアーチストはエリート層で、西洋のそれが担っていた既存秩序への批判意識の喚起ではなく、むしろ体制寄りの機能をもつことになっていたと指摘している。そして、それ以降はそのカウンター、自らの社会秩序への注視を組み込むという方向が強くなっていったという。
 フィリピンでは、欧米主義を参照するアート実践が、ローカルの流通でもつ意味合いへの省察が1970年代には生じはじめていたということだ。
 (そういえば、筆者は若い時分、リベラルと自他ともに認めるさる映画研究者に、うちの親父は小津安二郎ではなく八尾の朝吉親分を好んでいたんですよねえと話を向けると、「それは階級の問題でしょ」とせせら笑われた記憶がある。また、貧しい大学院生時代、日本に帰国した折、ピナ・バウシュの日本公演に出向いたとき、リベラル系演劇評論家に紹介されるやいなや、彼は、筆者が羽織っていたボロのコートの素材をチェックし「黒のコートなんかいい格好して着ているけど、どうせ安物なんでしょう」と言ってきたということもあった。なんという時代に修行の時期を過ごしたのかとも思うが、まあ、若い頃にはそんなものだろうとも思う。が、先進国の芸術を真似れていれば富裕層では格好がついた往時のアジア諸国が抱え込んでいた、文化的な貧しさであったのかもしれない。社会論的なことをいっているのではない。芸術が、受けとめる人を階級で選別するなどどということははたして真っ当なことなのだろうかということだ。)
 ともあれ、グローバル、アート、ローカルという棲み分けかどうかはともまく、アートシネマが偏った観客層しかもたないという限界に、デ・レオンは遡ること半世紀ほど前から察知していたのである。
 
 監督はイベントで、あまり誰もみない映画作品ばかりを作ってきた自分に大それた話ばかりしないでほしいなあと諧謔気味に漏らしてもいたが、サイコスリラー、ホラーサスペンスの形式をとりながら、重厚なテーマが透けて迫ってくるのは誰の目にもあきらかだろう。
 技法のこだわり使用と重ねると、かなり複雑な作品構成になっていることがわかるというものだ。
 ちなみに、今回のAFAでの特集上映会にあたっての Patrick F. Camposによる ”A Guide to Retrospective: Mike De Leon”(オンラインで読める)には、「ジャンルの利活用」「メタフィルム」といった言葉に、政治テーマがドッキングされた案内になっている。

 事実、制作、配給、上映の具体的な水準で、独裁政権下マルコスでの映画制作は苦労がたいへんだったようである。急いで付け加えておけば、彼が怯まなかったこともよく知られている。
 配布資料にも記されていたが、ロサンジェルスに招待された際、往時の政権を半ば揶揄する発言がすぐさま問題となり、パスポートが取り消されるという事件もあったようだ。あれこれ言葉をついで弁明し、ことなきを得たようではあるが、国の内外でそういったことが少なからずあったようだ。

 前回の記事で、若者が集うブギスと書いた。イベント当日は日曜日だった。
 よく知られているように、毎週日曜日はこの界隈(だけではなく、各繁華街でそうなのだが)、インドネシア、フィリピン、ミャンマーからのいわゆる移民労働者の圧倒される数で集まり、そこここでグループを形造り、しばしの余暇を楽しむ。その賑わいというか喧騒のすぐそばで、デ・リオン監督に出逢ったことはしっかりと記しておこう。
 そして、創立当初からご自身も関わっていたアジア・フィルム・アーカイブについてはどのように思われますかという最後の質問に、監督はこう答えた。「連帯してきたのです。」
 前回記したような、60人を越える多彩な観客は誰一人目を逸らしていない。

 その言葉には、社会反映論や技術決定論や思想反映論では汲みつくせない、何かがあったように思う。それをhumanityといってしまうのは感傷的すぎるだろうか。なんだか、映画浪漫派といった言葉を自分に許したくもなる気分になる
 そうか、シンガポールのミニシアター界隈とは、こうした場所であったのだなと思いをめぐらした。そして、そうか、自分はまだ何も知らないのだなとも痛感した。

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